見出し画像

心理的安全性について

*「心理的安全性」ということについて、昨日の帰り道にぽつぽつと考えていた。漢字が5文字以上つづいてしまうと「ウッ」となってしまう体質ではあるが、まあ言いたいことは分かる。心理的に、その場が安全であるということだ。常識の範囲内で、自分が何を言っても、どう振る舞っても安心がある、つまりそのように振る舞えるということが、この言葉の持つ意味なのだろう、と。

きっかけは家の前の壁に貼られた「ここで小便するな!!」という怒りの張り紙だった。意味はわかる。ここで小便をしたらダメだということだ。そういうけしからん人間がいるのだろう、注意喚起というわけだ。しかし悲しいかな、この道を通るぼくを含めたほとんどの人が、そこで小便などしない人なわけだ。

どのようにして、この心理的安全性が脅かされるのか。ぼくはこの原因について、小学生の頃に感じたことがある。教室に置いていた花瓶を割った特定の生徒に対しての怒りを、先生がクラス全員の前でぶちまけたことがあった。感情で殴られているような気分だった。それは事故ではなく、ある種故意的な事件だったので怒られるのは分かる。が、そのクラスにいるほとんどの人間が、その事件とは関係のない人間なのだ。

もちろんぼくもそのひとりで、自分とは関係がないことだと思いながらも、そのとばっちりをくらっていた。クラスのことなのだから、それはみんなの問題というのも分からないことはない。しかしそれならそれで、そのことを前提としたもっと適した諭し方があったように思う。本当にそのことを改善したいのなら、その子たちだけを集めて、怒るべきだと思った。子どもの頃の僕はもちろん、それについてどうすることもできなかったし、大人になった今でも、偉い人がそのように振る舞っていたら止めることなどできないだろう。

そういう経験って、みんな誰しもあると思うんですよ。ここにいないやつの文句を、ここにいるやつが聞かされたり。悪口なんてのはそういう構造でできていて、その経験の積み重ねで、ほぼ関係のない人たちが自由で快活な行動を取りにくくなってしまう。もちろん、上の立場の責任として、誰かがやったことを叱ったり、きちんと諭さなければいけないのは分かるが、僕はそれでも、前書きにあたる部分くらいはやさしく語りたいと思う。誰かを悪く捉えたい気持ちや、人並みにある悪意は誰だって持っている。本当に怒りたいのなら、その人だけに向けて、誰も聞こえない場所で、こんこんと怒ればいい。恥をかかせたいだとか、違った目的があるのなら別かもしれないよ。でもそれにしたって、関係のない人にまで、その感情が伝播していることは分かっておいた方がいい。とばっちりをくうのは、いつだって関係のない人間なのだ。そのとばっちりが蔓延している世の中なんて、僕は生きていたいと思わない。

怒りや毒を吐くことを得意としたり、それで人を動かしてきた人も、今も動かしている人もいるのだと思う。けれど本当のところは、その相手よりも、その周りの善男善女の心理的安全性が脅かされていることを、今一度心に留めておきたくなった。俺はここで、小便なんかしていないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?