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自己紹介について

*人生の中で、いろんな人々が、さまざまな体験をする。例えば僕はバイクの免許を持っていないので、バイクに乗る体験をしたことがない。農業はかろうじてあるが、船の上での漁業を体験したことはないし、スカイダイビングや海に潜って珊瑚礁を見たり、ということもない。逆に、ほとんどの人は文章を書いたことがあるだろうけれど、お金をもらって文章を書く、という体験をしている人は多くはないだろう。仕事でも趣味でも、それぞれの人がそれぞれの体験をして、その体験の組み合わせや感じ方、得たものや失ったものが、その人のオリジナルへと少しずつ染み出していく。

そう思うと、僕たちひとりひとりが、人生の中で平等に体験するコンテンツはあるのだろうか?と考えてみたところ、「自己紹介」なのではないか、とふと思った。きっと、この文章を読んでいる人の中で「自己紹介」をしたことがない人はいないだろう。学生の頃、中学や高校に上がったとき、新しいクラスになって、喋ったことがない人と話すとき、人は自らで自らのことを紹介する。社会人になっても、名刺という道具を使いながら、どこどこの〇〇です、と肩書きを使って自己を他人に紹介するわけだ。

思えば、この「自己紹介」という体験は、非常に奥深い。漫才師だって、舞台袖からセンターマイクに向かって出てきてまず最初にやるのは「自己紹介」なのだ。つまり、自分たちがどこの誰かを名乗ってから、おしゃべりやコントを始める。それは観客に対しての一種の礼儀でもあるし、素性の知れないやつのことをなかなか素直に笑えないという意味合いもあるのだろう。

この「自己紹介」が上手い人もいる。短い時間で、しかし効果的に自分がどんな人間かを要約して紹介できる人。昔はこういう人に憧れたりもしたけれど、今は特に何も思わなくなった。ただ「自己紹介が上手な人だなぁ」というだけだ。自己紹介にも、自分をきちんと紹介する「推進力」と、あえて謎や余白を残したまま相手に興味を持たせるような「引力」があるような気がしていて、その違いや使い方も、人によって違うしおもしろいなぁと思う。

この全員が平等に、これからも体験するであろう「自己紹介」について、一度本気で考えてみるのはどうだろう?それは上手い自己紹介を考えよう、ということではない。上手い自己紹介を思いついてしまったならば、それはひとつの「テンプレート」で冷凍食品のようになってしまい、新鮮味はなくなってしまう。毎回毎回、その場の正解を叩き出せるとおもしろいんじゃないかなぁ。あとは、他人に紹介してもらうだったりとかさ。


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