情報とはなんぞや

*『情報の文明学』という梅棹忠夫さんの著書を読んでいると、おもしろい一文があった。「情報」と「コミュニケーション」のちがいについて述べている文で、情報とコミュニケーションは違うものなんだと論じている。

まず、情報は人と人との関係とは限らない。犬がしっぽを振っているという情報を受け取ったり、人間も命令としての情報を犬に与えていたりする。月や星という天体も情報の送り手であり、光を通して送られてくる情報で、私たちは位置を確認したりすることができる。ただ、コミュニケーションと情報の違いは、コミュニケーションには常に受け手が存在するが、情報には受け手が存在しないものもたくさんあるって書いてるんだべな。

どういうことかというと、先の天体の例で言えば、天体は情報を発信しているわけではない。存在そのものが情報であり、その情報を情報として受け止め、解読するのは人間の側の問題なんだ、と。ふむふむ、なるほどなるほどとクロワッサンを食べながらうなずく。つまり、情報とはそれ自体で存在し、存在自体が情報なのである。

ぼくなりにこのことを解釈してみたときに、心理学と心理のちがいのようなものに思えた。というのも、ぼくが心理学から遠ざかったときの理由がまさにそうで、心理学は情報を集めて統計した学問であり、その人の心理そのものをあらわしたものではない、と考えたんだよね。たぶん、鼻水でもたらしながら当時の僕はそう考えた。

例えば、腕を組んでいながら話を聞いている人がいたとする。初歩的な心理学的に言えばこの所作は、「こころを開いていない」所作なんだそうだ。無意識の部分だから納得しようがないかもしれないけれど、そうらしい。しかし、腕を組んでいる人が必ずしもこころを開いていないかといえば、そうではない。

あくまで「腕を組んでいる」という情報をデータ化して、統計に落として学問にしたのが心理学であって、その人がこころを開いているかどうかなんてのは、その本人しかわからないことである。もっと言えば、本人だってわかっていないかもしれない。心理からあふれた所作や動きなどの情報を汲み取って心理に近づけようとしているのが、心理学なのかもしれないなと、現在のぼくは足りない頭で考えるのよ。

でね、ちょっとでも心理学をかじっている人は、この情報を受け取るわけ。受け取った上で、コミュニケーションに活かしていくんだよね。逆に言えば、ぼくたちが受け取れていない、もしくは解読不能な情報だってひしめいている、というわけだ。

…ここまで書いたものの、何を描きたかったのか、わからなくなった。ちょっとこむずかしいことを書いたらすぐこれだ。というわけで、今回はぼくから情報を発信してみたので、受け手の皆さんに任せてみるとしよう。えっへん。


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