見出し画像

自己紹介できないもの

*人はみな「自己紹介」をするが、本当に自分のことを、細部の細部まで、紹介できる人なんて、きっといない。「こうなったら、こうなります」といった解説書のように、あらゆるパターンとあらゆるケースを想定して他人に紹介なんて、時間も足りないし、そもそも自分が自分のことなどわかっちゃいないものだ。

そう、自分で自分のことなど、それほどわかっちゃいない。他人よりはわかった気になっているだけで、おいらも、おいら自身のことは、そこまで知らない分けだね。「こうなったら、どう思うのだろう?」と想像することはできても、実際に”こう”なったときに、自分でも思いもよらなかった感情や考えが出てくること、たくさんあるじゃないですか。俯瞰してみると「こんなふうに思うのか、自分は!」と、ちょっと小説か何かの登場人物を見ているように、おもしろがれてしまったりとか。

人という生き物は、人と出会って、人と関わることで、自分が引き出されていってしまうものだ。いいところも、わるいところも、そもそもそんな選別なんてないところから、どんどんと引き出される。優しさも、嫉妬も、憂いも、哀しみも、きっと人と人とが出会わなかったら、出てこなかった感情だらけだ。自己紹介で言えることなんて、ほんのほんの一部で、まだ見せれる部分なだけであってね。見せたくないものも、見られたくないものも、引き出されてしまう中で、付き合ったり離れたりを繰り返していくのが、人付き合いのめんどうだ。

だからといって、ぼかぁ「全部見せろ!」なんて意見は、どーかとは思うけれどね。隠したいなら隠し通す、見られたくないものを見て見ぬ振りをする、そんな努力は、きっと当たり前に必要ですよ。だし、それを自然にできる人のことを「友人」と呼んだりするのだと思う。

見たり、見られたり、見せたり、見せられたり、見られてしまったり、見てしまったり、そんなことを繰り返しながら、わたしもわたしを知っていくし、あなたのことを知っていく。見たくなかった、なんてのはある意味では傲慢だ。好きな人のすべてをチャーミングだと思えたら、それは幸せだろうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?