見えっこないものたち。

*人間の歴史は、あらゆるものを「見える」ようにしてきたのかもしれない。細胞とか細菌とか、栄養素とか身体の造りだとか、海の中には何がいるかとか、宇宙には何があるかだとか。手帳に書いたりスマホにメモしたりと、スケジュールを管理するというのも、ある種の「見える化」である。恋人が今この瞬間なにを思っているのかも知りたい!ってのも、好奇心という名の「見たい」欲求である。

ただ、どこまで行っても「すべてが見える」なーんてことはないんだよね。解き明かされていないことや、不思議と言われることはいくらでもある。そもそも、この地球や生き物がどうやって生まれたか、ほんっとーのほんとの源泉みたいなところまでは、まだ解明されていない。哲学風に言ってしまえば、見える景色が広がれば広がるほど、さらに見えないところが広がってくれやがったりもする。

そうだ、僕たちは知らないことだらけなのだ。世の知識を集約させたインターネットや大図書館を総動員したとしても、まだ見えないところはある。それは栗、じゃなかった「ロマン」でもあるし、すべてを分かりっこないという諦念に近い真理、礼節のようにも思う。

きみが今いる場所から、月は見えるかい。見えたとしても、その月の裏側までは見えないでしょう。さらに言やぁ、見えてると思っても、もっともっと近づけばぜんぜん違う表情をしているよ、お月さんなんてのは。人間の視界はどう頑張っても200度までだそうだ。つまり、残りの160度は見えていない。正面に相対している人の背中は見えない。初めて会った人がこれまでどんなふうに生きてきたかなんてのも、見えやしない。

物理的に知りようもないし、見えないもんだから、それを補うためのちからが「想像」することなんだろうね。見えていたら想像しなくていいもん、だって見えているんだから。その人の、景色の、街の、宇宙の、生き物の、わたしの見えない部分を想像する。その「想像」ってのは、「やさしさ」とか「配慮」とか「マーケティング」だとか、様々な言葉に形を変えて表現されるんだろうなぁ。


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