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「みんな」の根源には「ひとり」がある。

*凄腕の画家を10人集めて、絵を描いてもらったからといって、いい絵ができるとは限らない。なんてメンツが集まったんだ!っていう「すごい絵」にはなるだろうけれど、それが誰かを魅了する「いい絵」になるかどうかは、また別の話だ。


ピカソやゴッホが絵を描いてる最中に「ここにあれを入れて」とか「この部分の色が〜」なんて注文をつけたら、いい絵になっていただろうか。というかそもそも、そんなこと言うやつをどう思う?ピカソさんがその声を有り難く頂戴して、絵を変えるだろうか。きっと変えないだろうし、変えてほしくなかったりもするよ。


「何食べる?」に例えると分かりやすい。人それぞれ「魚」とか「肉」とか「パスタ」とか「杏仁豆腐」とか、それらをすべて取り入れてしまったら、行き着く先は、それらがすべてある「ファミレス」くらいしかないわけです。本当にファミレスに行きたかったのならそれでいいんだろうけれど、そうじゃなかったとしたら、そうじゃないよねえ。


「みんな」で何かをつくろうにも、最初の「なにか」がないと、なーんにも始まらないわけですよ。それがあってようやく、批評も再構築もオマージュもパロディがつくられていくわけです。最初の「なにか」もないのに、提案も相談も報告が始まるわけもない。で、その最初で最小単位の「なにか」は、けっきょく「ひとり」の手によってつくられるんだよなぁ。それを「アイデア」と呼んだり、「作品」と呼んだりする。


だれか「ひとり」が生み出したものが、「みんなのもの」になっていく。みんなの意見をパズルのように組み合わせて「いいもの」ができるわけではないのだ。「みんなでつくる」ことの素晴らしさと、そのパワーを知れば知るほど、最初の「なにか」を生み出したひとりの存在に行き着く。「みんな」がすごいことを分かった上で、「みんな」じゃできないことだってある。それらを区別して、使い分けて、進んでいくことができたらいいんでしょうね。

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