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笑うという共感

* ちょうど日曜日にあったお笑いの大会で、僕の横で司会をしてくれていた人が、本当によく笑う人なのだ。舞台袖でたぶん誰よりも笑っていた。そういえば、この人は普段からよく笑う。「笑い」って、ものすごく「共感力」に近いものなのかもしれないなぁと、横のよく笑う人をみて思った。

教養や知識といった意味でもそうだ。そもそも「それ」についての理解がなければ笑うことはできやしない。見た人が必ず爆笑する一文を、フランス語で書かれていたとしても、フランス語を読めない人は笑ったりできない。

近年よく見られる「わけのわからない」ような面白さについても、あれが面白いと理解できているから笑えると思うのよ。わけのわからないまま、つまらないものはいっぱいあるじゃないですか。ただわけのわからないものをつくればいいんじゃなくって、どこかに共感してもらえる取っ掛かりがあったりするから、その「わけのわからなさ」がおかしくなってくる。何されてるか分からないほど振り回されるジェットコースターって、しんどいだけで楽しくはないもんなぁ。

つまり、そのものについて共感できていたりするからこそ、「笑える」んじゃないかなぁ。ロシア語で話されたスピーチでなーんにも言葉はわかんないけど、顔の表情や雰囲気で「あ、ここはたぶんボケてるんだな」って分かるときあるじゃないですか。あの感じ。あの感じが、笑うってことで、それはつまり「共感する」ってことと似ているんじゃないのかなぁ。

「嘲笑」「あざけ笑う」にしたって、理解できないことをあざけ笑うことはできない。それが嘲るに足りることだと分かっているからこそ、笑うことができるのだ。あんまりいい意味での「笑い」ではないかもしれないけれど、これもそうなのかもなぁ。

なんにせよ、「笑い」ってのは人をやわらかくさせるね。よく笑っている人で、お堅めな感じな人ってぼくは出会ったことないもんなぁ。

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