記録が記憶を呼び起こす。

*職場で仕事をすることに飽きてしまって、パソコンを持って近くをぶらぶらと散歩していたら、年季の入った喫茶店を見つけて入った。アイスコーヒーを頼もうとしたが、店主のおすすめを断りきれず、バナナジュースを頼む。どこにでもあるようなバナナジュースで、可もなく不可もなく美味しかった。でも、店主が嬉しそうだったり、たくさんお話ししてくれたので、バナナジュースを頼んでよかったと思った。その後は、家に帰って焼きそばを作って食べる。最近はもっぱら焼きそばにハマっている。だいたいぼくの「ブーム」は二ヶ月が周期なので、これから二ヶ月はたいてい焼きそばを食べているであろう。

これは、2022年5月10日の、実際にぼくの日記に書かれてあることだ。文章だが、ほとんどただの「記録」である。「喫茶店に入った」「バナナジュースを飲んだ」「焼きそばを食べた」という、散文ではなく、記録だ。しかし「記録」があるから、それに紐付いて思い出す記憶があることも確かだ。

これが例えば「楽しかった」「映画を見て哀しかった」「あいつと遊んで嬉しかった」だけなら、どうだろう。感情は出来事についてまわるもので、きっかけが必要だから、それだけ書かれていてもなかなか思い出しにくい。しかし、「海へ行った」「初めて入る店で飲んだ」なら、それにまつわる気持ちや感情を、手繰り寄せるように思い出すことができる。

「記録」は「記憶」を呼び起こす。小さい頃のアルバムや、小学校のときに描いた絵日記を見返すと、あの頃の記憶を思い出せるから懐かしめる。ぼくが手帳に毎日書いているのは、どこに行ったや誰と会った、何をしたなど、ほとんどが記録だ。でもその記録から、忘れていたのに思い出せる何かがあったりなかったりするのがおもしろいんだよなぁ、と思う。それが「書く」ことの楽しみのひとつだよなぁ、とも。

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