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武器に自由をうばわれる

*有名な空手家のことばで「刃物を持っている相手はさほど怖くない。刃物にだけ気をつけていればいいんだから」というのが、あるそうです。もちろん、素人からしたら刃物を持っているだけで恐怖の対象なのですが、熟練者からすると、そうでもないんだと。刃物を持っている素人は、つまり刃物にさえ気をつけていれば、たいしたことがないんだ、と。

ぼくは空手の熟練者ではないけれど、このことば、ちょっと分かるなぁ。この「刃物」を、いろんなことばに置き換えて遊んでみましょうよ。「頭脳」でもいいし、「ルックス」なんてのもいいかもしれない。「権力」とか「立場」といったものも、うまく当てはまる気がするなぁ。

おおきく括ってしまえば、いま挙げたそれらは「武器」というわけです。武器を持っている人は、その武器にさえ気をつけていれば、あんがいなんてことないんだ、と。頭の良さが武器なら、その頭の良さを封じ込めてしまえばいい。いくら美人だろうが、暗闇の中で会話して、好きになるか?とかさ。武器は力を与えるかもしれないが、その武器に頼りがちになるというのかな、ある意味では自由を奪っているようなことでもある。

ぼくはたびたび「つかう」と「つかわれる」は逆転するという自論を言ってるんだけど、それと同じようなことでもある。もしたまたまあなたがナイフを持っていたところに、憎くてたまらない相手があらわれたら、そのナイフでグサリ、なんて魔が刺すこともありえなくはないでしょう。そのとき、「つかう」ものであったはずの「ナイフ」に、「つかわれている」ような状態だとは言えないだろうか。ナイフがなければ、なんにも起こらなかったかもしれない。これも、武器が自由を奪っている形のひとつだ。

自分がなにかと「武器」に頼りがちだなと思ったら、気をつけないといけないかもしれない。その武器を使うことで、新たな可能性を閉ざしてしまってはいないだろうか。そもそも、それは「武器」なのか?「武器」としてが正しい使い方なのか?なんてのも、考えながら歩んでいきたいね。このチカラは、ほんとはなんのためにあるんだっけ?


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