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本気で誰かに愛されてるか?
*ふらりと吸い込まれるように入った初めてのバーで、流れていた曲がよかった。アコギで弾かれた優しいレゲエのようなフォークソング。少しガラついた声。「本気で誰かを 愛しましょうよね」という歌詞がスピーカーから流れてきて、いい曲だなぁとしみじみした。するとつづく歌詞が「本気で誰かに 愛されましょうよね」という歌詞で、うわあ!と心が痺れた。
「本気で誰かを愛しましょうよね」も、なかなかむづかしいことだよなぁ。そもそも、本気で誰かを愛するって、どういうことなんだ、というところから始まる。本気で誰かを愛したことはありますか?と誰かから聞かれたとしたら、首を縦に振るのはなかなか躊躇してしまうだろうな。
ただ「愛する」というのは、自動詞だから、わたしがわたしを動かせば、相手さえいればできることだ。しかし、「本気で誰かに愛されましょうよね」という「本気で愛される」ことは、他動詞にあたるから、わたしだけではできないことのように思う。いや、思っていた。
しかし、違うのだ。その愛から逃げていたのは、自分自身なんじゃないだろうかと、その歌詞を聞いたときに思った。「愛される」そのことを受動ではなく、本気で愛される、その愛を受け止めるという意味で捉えてみると、まったく違う景色が見えたのだ。
思えば僕は、誰かが向けてくれた愛を、余すことなくきちんと受け取ったことはあるだろうか。もちろん「いらないよ」と言うことも大事だが、本気で受け取るのが怖くて、逃げてしまったりしたことはないだろうか。愛されたいと思っているはずなのに、本気で愛されていなかったのは、実は僕の方なんじゃないか。そんなことを、初めてのバーで聞いた曲に、心を痺れさせながら考えていた。そういえば、清志郎がうっとりした声で、口癖のようにMCで言ってたな「ヘイ、愛し合ってるかい?」と。
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