見出し画像

孤独の副作用

*とある哲学者の方との打ち合わせが昨日あって、約1時間ほどあーだこーだと話をしていたんですが、これがおもしろかった。「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があり、そのことについて提唱したり、考えておられたりする方なんだけれど、いわゆる「孤独との付き合い方」と言い換えてもいいかもしれない、と僕は思う。それぞれが持つ孤独と、ちゃんと付き合えているか?ということだ。

「孤独と付き合う」ということは、ほんとうにさまざまな意味をもたらす。自分の振る舞いを振り返ることや、考えを深めるための内省の時間でもある。やり方によっては、バッドな気分に入ってしまうこともあるし、ゾーンに入ったように時間を忘れてのめり込んでしまうこともあるだろう。文字通り「孤独」なのだから、そこには自分以外誰もいないし、がゆえに「さみしさ」が付きまとうのも、孤独が持つ副作用だ。

しかし現代は、その「孤独」の時間がどんどん奪われてしまっていると。あらゆる娯楽、エンタメが席巻し、まるで時間を埋めるように、コンテンツの方からこちらにやってきてくれる。それが本当におもしろかったりするので、また大変だ。聞いたところによると、今のコンテンツ業界では「お金」の奪い合いではなく、ユーザーの持つ「時間」を奪い合っている、という話もある。

自分の生活は、自分にしか守れないように、その「時間」は自分で守るしかない。なぜその「孤独」が大事で、どのように守っていけばいいのか?という話を皮切りに、打ち合わせはどんどん「言語化」や「問い」の立て方など話は広がっていった。中でもおもしろかったのが「言語化に慎重な人ほど、言語化できたものを大事にしすぎて、アップデートがおろそかになる」ということだ。これはちょっと響いたし、自分もそのきらいがたまにあるなぁ、と思った。アップデートされ続けない答えも、何もかもないよなぁ。好きなものも夢もきらいなものも悩みも、アップデートされていくことが大事なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?