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身体に蓄積される記憶

*会うといつも思い出話をする人がいる。その人とはべつに、十年来の仲でもなんでもない。なんなら1年前に知り合っただけの人だ。ただお互いの出会ってなかった今までを埋め合わせるように、会うといつも今までの思い出話をする。

そんな気の置けない友人と喋っていて、「あ、この言葉、前にもどこかで言ったことがあるぞ」と、口馴染みがあって思い出したことがあった。僕が彼女に言ったセリフは、いつかどこかで、誰かに言ったような気がした。そうして思い出した出来事は、今まで思い出したことのない、初めて開いた記憶だった。

記憶というものは、頭の中、脳みそというデータフォルダに無尽蔵に記憶されているようなイメージがあるかもしれない。けれど、実際のところは、そうじゃないような気がする。手にも指にも足にも、口にも鼻にも耳にも、きっとちんこにだって記憶はあるんじゃないか。身体のそれぞれに記憶はあって、その部位が触れることで思い出すことも、たくさんあるように思う。触れることでしか開かない記憶の引き出しや、歩いたり走ったり、嗅いだり重ねたりすることでしか、思い出せない何かが、今日も生きている僕たちの身体の細胞のひとつひとつに刻み込まれるように蓄積されているような気がするのだ。

日々は生きるという言葉に要約されがちだ。その生きるの内訳は、細かすぎる網目上で成り立っている。歩いて、立ち止まって、食べて、嗅いで、崩して、舐めて、触れて、悩んで、考えて、落ち着いて、温まって、寒がって、飲んで、酔っ払って、ケンカして、セックスして、寝て、まどろんで、怒って、悲しんで、奮って、飽きて、、、言葉を羅列しても到底追いつかない感情や動作や機微の集大成が今日で、今で、この瞬間だ。その積み重ねで出来ている。忘れてもいつでも思い出せるように、脳ではなく僕たちの身体が、そのひとつひとつを覚え込んでくれている。だから今日も安心して、存分にめいっぱい生きていたい。その機微の繰り返しと揺れ動きこそが、人生だと思うから。

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