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その人に”なる”才能

*きのう見に行った展示がおもしろくて、手で顔を隠してあるモノクロの写真展だった。その背景やたどり着いたまでの経緯も含めておもしろくて、写真家の女性は、被写体の顔を見て撮るのがどうしても恥ずかしくて、写真家生活30年の間ずっと人を撮ることはなかったそうだ。しかしあるとき、「顔を隠せば撮れるのでは?」と思いつき、被写体に手で顔を隠してもらって撮るようにしたら撮れるようになったと。その結晶が今回の写真展なんです、と。

たまたま写真家さんも在廊されていたので、一通り写真を見たあと、ちょっと質問を投げてみた。「最初は顔を撮ろうと思って、恥ずかしいから手で隠してもらっていたわけですよね。今は手を撮ってるのか、被写体を撮るために手で隠してもらっているのかでいうと、どっちなんですか?」と聞くと、写真家の方は「今でも恥ずかしいから、手じゃなく被写体を撮ってる感じですね」と丁寧に答えてくれた。

そこからしばらく喋り込んでいると、ギャラリーの店主がのそっと出てきて「お話聞くの上手ですねえ、質問がすばらしい」と褒めてくださった。質問や聞く力を褒められるのはいちばん嬉しい。近頃、質問や聞くことについて褒められる機会が増えた。トークや対談の聞き手として呼ばれる仕事があることも多いが、とくに意識していることがあるわけでもない。ただただその話を「聞く」ことを、強いて言えばやっているくらいだ。

あ、でも、この前ひとつ驚かれたことがあったなぁ。ぼくは質問するとき、その質問に対して答える側が「なんて返すか?」まで考えて質問するんですね。さらにいえば、それに対して自分がなんて返すかまでも考えて、脳内でずっと会話が何テイクも続くんです。それが合っていたら正解した気分になるし、違っていてもおもしろいんですよ。

尊敬している糸井さんが昔、誰かとの対談の仕事で酔っ払って、対談の原稿をひとりで書いたという話がある。それを読んだ対談相手の人は「本当に俺が言ってると思った」って話があって。ぼくはその話が好きで、すっごく憧れてるんですよね。その人に「なる」才能というのかな。自分がどれだけおもしろいんだ?と常に思っているからこそ、相手なら何て言うだろう?この人なら何て返すだろう?を常に考えている日陰者な気がする。


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