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橋を強くする工事を行なっています

*きのう、川沿いを歩いてたら、おもしろい看板を見つけてね。工事中の看板なんですけど、「橋を強くする工事を行なっています」と書かれていたんですよ。その下に期間や責任者など色々書いてある、ちゃんとした公式の看板なのに、メインは「橋を強くする工事」ですよ。めちゃくちゃ分かりやすいけど、何やってんのかわっかんないなぁと、思わず立ち止まってしまった。

この「橋を強くする工事」みたいな日本語の使われ方は、けっこう増えてきているように思う。抽象度を高めたりすることで、曖昧にしてしまうというかね。逆に、ビジネスシーンにおいて、横文字という局所的な表現を多用するのもしばしば見かけるじゃない。アグリーがアサインでカオマンガイ、みたいなね。それは日本語だと広くおおきな意味として捉われてしまいがち、つまり齟齬が起きる可能性があるので、なるべく「翻訳」が同じ意味になるような、言葉としては局所的で具体的な英語を使うことによって、齟齬をなくそうとしている動きだとも言える。

例えばぼくは、谷川俊太郎さんの詩が大好きなんだけど、やっぱり「誰にでもわかる言葉」を選んで詩を書かれるから好きなんだよなぁ。誰にでもわかる言葉、つまり冒頭の「橋を強くする工事」にちょっと似ているわけです。抽象度も高いし、子どもにも伝わるようなやさしい言葉なんだけれど、そこには無限の奥行きがある。それは抽象度が高いからで、いわば齟齬が起きやすいような状況ではあるのに、どうして自分の気持ちを、自分の知っている言葉で、自分以上に代弁してくれているんだろう、という気持ちになってしまう。そしてその曖昧さ、抽象度の中で、それぞれがちょっとずつ違ったバランスでその詩を受け取り、それぞれで好きになったりできるとゆーかさ。

ぼくはなるべく、易しい言葉であらゆることを言ったり話したりしたいとは思うのだけれど、そのためにはむづかしい言葉もきちんと使えるようになっておかないとなぁ、とも思う。そうも思うんだけれど、でもさ、正直、やさしい言葉の組み合わせで、たいていのことはちゃんと説明できたりするんじゃないかな、とも思うんだよなぁ。そこをきちんとサボらなければ、さ。

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