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こぼれ落ちた二週間

*昨日は、いつもと違う喫茶店に昼前に行った。ちょうどおじさん三人組が出ようとしているところで、入り口の前で少し待つ。おじさんの三人組というのは、いつも不思議な距離を感じる。どこからどうなって結成された三人組なのだろうか。これが二人なら一対一で予定を合わせれば済むけれど、三人となると「集まろう」と誰かが声をかけなければ集まらない。いつ出会った友達なんだろうか。最近か、それとも学生時代からの仲だろうか。もともと、四人だったのが三人になったのかもしれない。そんなことを思っているうちに、おじさん三人組はひとりひとり席を立ち、バラバラに帰って行った。おじさんの残り香のする席に座り、サービスランチ(アイスコーヒーは食前)を頼む。

ランチが運ばれてくるまでのあいだ、カバンから手帳を取り出し、ぽっかりと空いた二週間分の日記をつけていった。できるだけその日のうちに日記をつけるようにしているが、忙しかったり、めんどうだったりすると、こうして何日か分の日記をまとめて一度につけることはままある。とはいえ、二週間も空いたのは初めてだ。自分の生活から、直近二週間がまるごと抜け落ちた感覚に陥る。

それを拾い集めるように、スマホのカレンダーを見ながら、その日その日のスケジュールを確認して思い出していく。思い出は、泉のように常に湧き出ているものではない。何かきっかけがあって初めて、どうどうと流れ出るものだ。

ここ最近、悔しいと思うことや、違和感や人の苦手な部分に触れることが多かったせいか、頭の中は悪口ですぐに埋め尽くされた。悪口をわざわざ手書きで書くことほどバカらしい労力はない。自分にとって「何がイヤだったのか・気持ち悪いと思ったのか」そして「それはなぜなのか、自分の何に触れたのか」に変換しながら書いていく。今思えば、悪口よりもこっちの方が労力がかかってるんじゃないだろうか。それでも、バカらしい労力だとは思わないからまだマシなのか。

「絵は、キャンバスに殴り描いた祈りだよ」と何かの小説で読んだことがある。僕はその言葉を気に入っている。高尚なものを好むわけではない。下衆で下世話で下品なものであろうと、作り手のささやかな祈りが垣間見えるものが好きだ。僕も願わくばそう在りたいと思っている。

祈りになりきれていない悪口を手帳に殴り書き、ようやく今日のページに辿り着く頃には、数十分が経っていた。いつの時点で届いたか忘れたランチからは、とうに湯気が出切っている。ひとまずランチを食べ終え、一服し、今日のページを再び開く。何を書こうかは、味噌汁を啜っているときにもう決まっていた。「他人のことほどよく見える。自分の作るもので、自分と他人を納得させるしかない」そう書いて、もう一本タバコを吸って、喫茶店を後にした。980円で、抜け落ちた二週間を取り戻した。


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