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言葉の地雷について

*昔付き合っていた人が、過敏に言葉に反応する人だった。それはもう地雷のように、話しているうちに出る「単語」に反応するのだ。後日、赤ペン先生のように、以前言ったあの言葉がイヤだったとか、こんな気持ちになったとかチクチク言われたものだ。

ぼくはめんどくさがりなので、正直に「ぼくはそういう意味で使ってない。言葉に反応してるのはあなたの問題で、あなたの傷跡でしょう」といけしゃあしゃあと述べていた。今でもその思いは変わらない。送り手の感情や気持ちを無視して、言葉だけに反応してあれこれ言われるのはちょっと違うでしょう、と思っている。それがまかりとおるのであれば、人との会話は地雷だらけになるしね。

もちろん、言われてイヤな感じになる単語やフレーズは、ぼくにだってあるし、人それぞれあるでしょう。しかし言葉とは、それが会話である以上、文脈の上に存在するものである。辞書で引っ張り倒しても意味が出てこない、意味の違う使い方を、前後の文脈の中で使うことができる。さらに言えば、その言葉を使うものの気持ちがはじめにあることを忘れてはいけない。

「ぼくは、その人が善意か悪意かどっちで言ってるかだけを見てるんですよ」
尊敬する糸井重里さんが、だいぶむかーしに言っていたことの意味がようやくわかった。そうか、言葉そのものに反応するのは、ちょっとおかどちがいなのだ。アレルギーのように拒絶しそうになる言葉であろうと、その人が善意で言ってくれているのであれば、そこに込められた気持ちは良いものだろう。逆を考えてみれば容易だ。いくらきらびやかな言葉であろうと、悪意で吐かれた言葉はどうしたって受け取りがたい。もちろん、いくら善意であろうと受け取りがたい言葉はあります。その場合はほとんど、言葉のチョイスがまちがっているんでしょうね。

ぼくたちが普段つかっている言葉は、辞書の上にあるのではない。辞書から引っ張り出すものでもない。自分の思いや考えを伝えるために、頭や心からどうにか引っ張ってくるものなのだ。言葉に反応して自分が勝手に傷ついたりイヤな気持ちになったとき、そこにはたいてい傷跡があったりする。それよりも、それを言った人がどういうつもりで言ってくれているのか、をまずは考えるようにしたいね。言葉で人を傷つけることはできるけれど、人を傷つけるためにあるものじゃない。だからこそ、あなたが勝手に、あなたを傷つけるためにあるものでもないのだ。


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