チラッと秘密を見せ合って

*話し言葉は、その人の本性であり、むき身の部分なのだと思う。逆に「敬語」はドレスコードだ。時と場合を弁えて、失礼のないよう、場に馴染むよう、言葉に服を、歯に衣を着せる。


ぼくが好きな瞬間は、敬語で話している人が時折、自分の地元の方言が出ちゃうような一瞬。関西だと「〜でしたら」が「〜やったら」なんてなっちゃうようなことね。その瞬間を垣間見るのが好きだ。これはもはや、癖に近いようなことだと思うけれど。


そしてこれはあくまで一例なのだ。話し言葉についての例であって、他のことに関しても、人が自分をチラッと出してしまうあの瞬間が好きだ。大人の男性から、中二のような童心が覗けたり、5歳の女の子が子を産むような女性としての力強さを見せたり、おじいちゃんが先生だった頃のクセで話したり、一人称が違ったり。なんだかそういうものを見るのが好きで、さまざまな人の、意識的ではないけれど隠しているところを、ちらっと覗いてみたい。人の腹をカッ捌く趣味はないが、こっそり秘密を教え合うのは楽しいだろうなぁ。Hな意味でも、マジメな意味でも。


社会の中で本当にありのまま、むき身100%で生きている人を見たことはない。いたとしても、いない。誰しもが本当の自分の上に布を被せたり服を着せたりしながら、上手になんとかやっていっている。あんなぷるぷるでむき身のゆで卵でさえ、中には黄身がひそんでいるくらいなのだから。みんなちゃんと心の中に居場所を持っていて、それらを小出しにしたり、ときには曝け出してみたりして、なんとか生きているのだと思う。もちろん、ぼく自身も。


ひとりの人間として、大人として、社会に生きるものとしての礼儀を持ちながら、自分と相手のむき身を交換したり、たくさんのことを話したり問いかけ合ったりしていたいと思う。それができる関係の人を「友人」と呼ぶのかもしれない。恋人でも家族でも、友人たりえるってところがいいよね。

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