共感とは、すでにそこにある。

*小さい頃に何度か読んだことはあったが、大人なってからはほとんど触れたことがなかった。つげ義春さんの作品を、いま片っ端から読んでいるところだ。「ねじ式」「無能の人」・・・こんなの、小さい頃に読んでも分からなかっただろうな。けれど大人になった今、もんのすごくつげさんの世界にハマってしまっている。どこか気持ち悪さと、エロさと、哀愁しかない世界に、憧れを抱いてしまう。

「退屈な部屋」という漫画なんか、男が家とは別にアパートを借りたところから始まる。仕事をするわけでもなく、寝るわけでもなく、ただぼーっとひとりでいるためにそのアパートへ通う。次第に奥さんに見つかり、そのアパートには色々な人がやってきて・・・と、どうやったらそんな話思いつくんだってのもあるんだけど、その「妻に内緒でアパートを借りている」から始まる、男の心境に、どこか共感しちゃうんだよなぁ。

・「共感」とは、つくるものではなく、すでにそこにあるものなのだ。きっと何度も書いていることだろうけれど、何度だって自分に言い聞かせたい。ウケたい、認められたい、その一心で共感をつくってしまったら(つまり、自分に対して嘘をついてしまったら)、自分が分からなくなる。それよりも、むき身の自分を赤裸々に書いたもののほうがいい。必ず、世界中に誰かひとりくらいは、それに共感してくれる人は存在していると信じている。だって、ぼくが好きな本や映画や写真や創作物には、すくなくともぼくは共感していて、だからこそ好きなのだから。

自分の思ったこと、感じたことにどれだけ嘘をつかず、そのうえでどれだけそれらを昇華できるか。ある人は文章で、ある人は写真で、映画で、音楽で、詩で、ダンスで、表現する。ぼくたちが心打たれるものは、やっぱり完全なフィクションではなく、核の部分はリアリティのある現実で、それをつくった誰かが確かに思って感じたことなんだと思う。


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