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弾け飛んだ親子丼

*少し前、お世話になっているオッサンの誕生日で、共通の友人である、僕も大好きなお芝居ユニットの演出のお手伝いをさせてもらった。といっても、当日ちょっとしたリハで合わせただけなので、その程度のものなのだけれど、音響と照明を軽く担当した。といっても、最後のいっちばん良いシーンで、照明の色まちがえちゃったんだけど。すみません、芝居紳士のお二方。でも貴重な体験をありがとうございますです。

事前に台本を渡されて、僕も一度観に行った新作の公演なんだけれど、文字で見るとまたちがったおもしろさがあるなぁ。文学みたいなおもしろさだ。でも演じると、そのおもしろさに「演技」とか「演出」が乗ってくる。ここに関してはぼくがまだ経験したことのない世界なので、想像もつかない。こうして書いている文章が、誰かに読まれたり演じられたりすることで、さらにもうひとつ昇華されるなんて、そこまで考えて書くなんて、すっごいことだよなぁ。読まれるので精一杯だ。

その中でひとつ驚いたのが、前回見た公演から演出が大幅に変わっている箇所があったことだ。ホン自体は変わっていないが、そのシーンの演出、役者の声の合わせ方や言い方がまるっきり変わっていた。それが明らかに「いい」もので、新鮮で、絶対こっちのがいいじゃん!と音響席から見ていた。それと同時に、一度作ったから完成じゃないんだなぁと、当たり前のことを思い知らされた。

僕の好きな作家もそうだ。連載で書いていたエッセイが、ラジオの朗読ではちょこちょこ変わっていた。それがさらに本になるときにも言い回しが変わっていた。きっとそのたびに、ちょこちょこ改稿を繰り返しているのだろう。出したら終わり、完成ではないのだ。それはあくまでも一時通過点で、より良いものにするために、つどつど見直しては直す、その繰り返しなのだ。その繰り返しこそが、自分が何かを表現するときの矜持なのだと思う。忘れちゃいけないよなぁ、今の自分がつくるものを、未来の自分は超えていかなきゃなんない。


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