見出し画像

あきらめグセ、という性質。

*きのう、ある人と話していて、「例えば障碍や病気で、選択肢や尊厳が奪われることが許せない。それについて諦められない」という、けっこう深いところでの話になった。ぼく自身、そういう経験がないこともないが、濃度が違いすぎるので、うかつに何も話せず、ただ聞いていただけだった。それと同時に、ぼくはけっこう気軽に「諦めて」きた側の人間だな、とも思ったのだ。

例えばぼくは、最終学歴で言うと「高卒」だ。つまり、募集条件に「大卒」という単語が入っているだけで、落とされてしまう。正しく言えば、「大卒」という文字であきらめてしまう。他にもそれなりの道が閉ざされている理由はあるのだけれど、ここでは書けないものもあるので、割愛。喝、愛。

ぼくと、障碍を持っている方を一緒くたに並べて語るのは、お門違いだと分かってはいる。が、あくまでその人が持つ性質として「あきらめる」を持っている人もいるだろう。それと同じように、奮起したり、憤りをおぼえる人もいるだろう。どちらがいいわるいではなく、あくまで性質の話で、役割のようなものだとも思う。

「ワシら農家は、諦めるクセがついとるンです。大雨や台風で作物がダメになったら、お天道様のやることだから仕方ねえな、ってあきらめるンです。そういう土地で生きてるンですよ」
これは『北の国から』で、ぼくの好きな清吉おじさんが発するセリフだ。ちょっと分かるなぁ、とこのセリフを聞いて思ってしまった。目の前のことを諦めれるかどうかよりも、そういうクセ、性質がついてしまっているのだ、と。

ただその一方で、ぼくらが現在、当たり前のように得ている市民権の中には、昔の人たちが血だらけになって獲得したものだってあるだろう。諦めず、返り血を浴びながら得たものの上で生活している、という側面だってある。

諦めて違う道を進むか、諦めずに進み続けるか。どちらも勇気がいることでもあるし、なかば意地で通すことでもあるし、飄々とやってしまえることでもあるかもしれない。当事者ならではのストーリーや体験もあるだろうし、一概になんとも言えないので、むづかしいことである。「諦めていいのか?」と鼓舞することもできれば、脅すことだってできる。このことは、いざ当事者にならないと、分からないもんだなぁ。分からないことを、分からないと書いた次第でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?