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見落としがちな「ささい」について

*知り合いの会社に遊びに行った日、ちらっと数分程度外でタバコを吸って戻ったら、玄関の靴が揃えられていたことに気が付いた。もしかして?と思い、先ほど帰ったメンバーに連絡をしてみると、「気づきましたね、ニヤリ」と返信があった。ささいなことだけれど、僕はその人のことを「いいなぁ」と思ったのだ。そして、次回から自分が出るときも思い出せたら、ぜひ靴を揃えて出ようと思わせてくれた。

「ささいなこと」というのは文字通り「ささい」なので、どうしても見落としやすい。ここ一番に目と気をとられて、ささいなことを見落としてしまい、後からしっぺ返しがくることはままある。しかし、ホームランを打つわけではないが、ささいなことを大事にして、目立たないけれど着々と歩いている人はいっくらでもいるんだよな。

自分が「ささいなこと」を大事にしようと思うなら、その練習として大事なのは「他人のささいなこと」に気付くことだ。目を動かして、いろんな「ささい」を見つけることなんだね。潔癖症とか細かいとか言われる人でも、すべての方面において細かいなんてことはない。ある一定の方面だけを指差して言っているだけ、つまり自分にとって気付いていない、おおまかになっている方角はたくさんある。

「ささいを大事に」とか「細部に神は宿る」を本気でやっていきたいのなら、その「ささい」や「神」を見つけること。料理ひとつとっても「ささいな味付け」をしようと思うのなら、誰かのご飯を食べたときに、その「ささいさ」に気付かなければならない。気付かないことを、自分の番になったときにできるわけがないのだ。

「ささいなことを大事にしたい」、そう思う人はぼくも含めてたくさんいる。「ささい」を大事にするのは、よいことだ。ささいを大事にしている人ほど、人のささいによく気付くんだろうなぁ。ぼくは靴を揃えて出ていったあの人のおかげで、見落としていた「ささい」のことを、何度目かのように思い出したのであった。


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