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記録から記憶が

*ああ、「記憶」のために「記録」をきちんとしておこうと、つくづく思ったのであった。すぐに何かを忘れてしまう、ある意味でグッジョブな自分の脳みそに頼らず、きちんと何かを記録しておこう。「記録」をばかにしちゃいけないぞ、と思った。

例えば、昔の家なんかでよく見かける「柱のキズ」。子供たちが何歳のときに、どれくらいの身長だったかを刻んでいるものだけれど、あの「柱のキズ」に残された情報は「そのとき、身長が何センチだったか」だけではないじゃないですか。きっと何歳のときにどうだったかとか、どんな髪型で、どんな子で、こんなけんかをして、大変だったし可愛かったんだよ、というさまざまな思い出が、あのたった一本の「キズ」に、それぞれ込められているわけでさ。

そう思うとさ、やっぱり「記録」することはとても大事なことだ。子どもの頃、なんなら今でもあんなに写真を撮られてアルバムにされることを嫌がってたけど、自分が親だったら残したいんだろうなぁ。その写真そのものじゃなくて、写真から芋づる式に引っ張り出される思い出を、楽しみたいんだ。

僕もこことは別に、手帳に日記を書いているが、そこには本当に今日何があって、何をしたか、程度しか書いていない。ある意味で業務的な日々の記録なんだけど、そこからでも思い出すことがある。誰と会ったか、どんな服を着てたか、その日はちょっと雨が降っていたこととか。記憶はさらなる記憶を呼ぶので、そうして僕たちは過去を旅したり、気持ちを呼び起こすことだってできる。

「なんでもかんでも」でもいいし、しょうもないことでも、何を食べたかでもいい。誰に会ったか、今日は何をしたか、箇条書きでもいい。とにかく、何かを「記録」しておこう。「記憶」はいつだって、記録をもとにひっぱりだされるのだから。文字や数字による記録をばかにしちゃいけないなぁ。思えば、歴史だって記録の集積だ。


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