自分のいない、いつかどこかで。

*ある友人は、飲み会でひとりまたひとりと帰っていくのが苦手で仕方ないそうだ。彼はうしろに予定がないかぎり、飲み会には最後の最後まで残るのだという。その時間が終わってほしくないというより、自分が帰ったあとに、なにか面白いことや素敵な話がはじまったら、その場にいないことをひどく後悔するんだそうだ。やっかいなほど寂しがりやで、歳上だけれどかわいいやつめ、と思う。しかし、飲み会の果ての果て、終着点はいつだって二日酔いである。彼と午前中に会うとたいてい、むくんだ顔つきで「おーっす」と酒焼けした声で第一声をかけてくる。


自分という人間はこの世にひとりしかいないので、基本的には、いま目の前で起きていること以外は体験できないつくりになっている。いま、日本にいるぼくが、アメリカの年越しを体験することは不可能だ。逆に、アメリカで年越しをしている人は、日本で年越しそばを食べながら紅白を見ることはできやしない。人は、自分の今いる時間とその場所で起こり得ることしか、体験することはできない。


そのことがなんだかとてもさみしく、冬空に浮かぶ星のような厳しさと美しさを感じるのだ。孤独と美しさは相性がいい。今日もまた、自分のいないどこかで、誰かが笑ったり、恋したり、胸を痛めたり、抱き合ったりしている。そんなふうに黄昏ている誰かも、いつかどこかにいるかもしれない。


今日もまた、自分がいないあらゆる場所で、時間に、奇妙なことや笑い転げる出来事が、涙を流している人が、呆然と立ち尽くしている誰かがいる。そのいつかどこかに自分がいないことを、さみしく思う。同時に、それは世界の素晴らしさのようにも思えるのだ。哀しみも歓びも侘しさも儚さも、ときには痛みすらも、全人類で分け合うことでバランスをとりながらこの世界はできているのかもしれない。それがなんともさみしくて、孤独で、けれどひとりじゃないように思えるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?