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どっちのほうが思い出になる?

*エッセイの週刊連載がつい先日、100回を超えた。2年と少しの間、毎週1本のエッセイを書き続けている。ほとんどは思い出を掘り起こして書いているので、頭やこころの中を散歩しながら、今まで忘れていたものから思い出したくなかったものまで、さまざまな思い出を拾い集める作業を日常の中でやっている。もちろん、思い出をそのまま書いているわけではないので、勝手にねつ造したり、自然と思い違いしていることだって多々ある。

そんな思い出を切り売りして生きている商売をしていて、さいきん変わったなと思うことがある。それが、なにか行動するときの指針に「どっちのほうが思い出になるだろうか?」という考えが芽生えてきたのだ。意外と効率厨な自分からすれば、なかなかの変化である。自分で気付いて、自分におどろいたものだ。

昔好きだった人と初めてデートしたとき、頭の中で思い描いていたプランをエスコートしたら、ことごとく行く先々のお店が臨時休業だったことがあった。喫茶店も、ギャラリーもことごとく休みで、ただ数時間のあいだ歩き回っただけの日になったことがある。彼女の勧めで、道中にあった公園のベンチに座って休憩する。ダメだ、楽しくなかっただろうなーと思っていたら、彼女が自販機で買ったコーヒーを飲みながら、満面の笑みで僕に言う。「今日、たくさん散歩してすっごく楽しい日だったね」と。

その一言と満面の笑みで、僕の中でその日が思い出になった。ハズレがアタリになった瞬間だった。目の前の一喜一憂に騙されてはいけない。やがてすべては思い出になる。忘れてもいつか思い出す。嫌なことも戻りたい過去も。だからどーせなら、振り返ったときに思い出になるような、凡庸でかけがえのない日々をあ歩みたいと思う。スナックで数万円ぼったくられたのも、今思い出してもまったくいい思い出にならない思い出だ。ガラクタみたいな日々でも美しく抱えて生きれば、いつかすべてが懐かしくなる。懐かしさは、生きれば生きるほど与えられる、人生のログインボーナスのようなものだ。

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