見出し画像

応援歌というぬるま湯

つい先日、「ダンディ倶楽部」という会を発足した。ダンディ倶楽部とは、ダンディさを追い求めるという、いかにもダンディじゃない人たちが集まるような会である。先日の議題は「自分よりスゴい年下と出会ったときに、どうやって自分を慰めるか」であった。この議題の発端は、たしか「嫉妬をうまくあこがれへと昇華できますか」だったと思う。

「正直、自分よりスゴいと思う年下にまだ出会ったことがない」やら「美味しいものに入って風呂食って寝る」だの、さまざまな意見が飛び交う中で、一案として僕が出したのは「応援歌を聴く」だった。そういえば、応援歌ってのはどこかの国の言葉で「コンシャス」というのを聞いたことがある。そんなうんちくを聞きながら、体育会系の略語みたいだなと胸の内で思う。誰かひとりが大きな声で言うと、ブックオフよろしく、他のメンバーが次々と口にするタイプの言葉だ。(「コンシャス!」...「コンシャース」「コシャスっ」みたいに)

僕自身、応援歌にひどく励まされる人生を送っている。夜にひとりで散歩しながら聴く曲は、だいたい「応援歌」に分類されると思う。今聞いているのはthe endという歌手の「引き潮」という曲で、サビの「どんよりした曇り空でもドンウォーリー」という歌詞に、ここ最近は励まされて生きている。少し前までは竹原ピストルさんの前身、野狐禅の「山手線」という曲だった。


「結局中途半端なもんだから 諦めることも叶えることもできんのです ああでもねえ、こうでもねえ 試行錯誤が悪い癖」
「やめてしまおうって言おうと思った それを遮るようなタイミングで山手線が真横を走り抜けて 僕はそこになんらかのメッセージを感じて 黙って歩き続けたんだ」

この歌詞たちが自分の心にじゅんじゅんと沁みてきて、止まらなくなるのだ。そうだ、もう少し頑張ってみようと、どうにかこうにか眠りにつく。何をどう頑張ればいいかの目論見すらついていないのに。


画像1


*「応援歌って、熱くも冷たくもない、ついつい長居しちゃうぬるま湯だよな」と、ある先輩は口にした。この文章を書いている今も、一番心が近いと思っている先輩である。その先輩も「応援歌」が好きで、よくふたりで教え合ったり聴き合ったりしていた。


先輩は20代の頃に芸人を目指していたらしく、その時期にやっぱり慰めるように竹原ピストルをよく聴いていたそうだ。聴いては「がんばろう」「あきらめてたまるか」と思っては繰り返し、ふと周りを見てみると、自分と同じような夢見る芸人たちが同じように好きで聴いていた。その景色を見て、結局上に行けるのは「応援歌」を聴こうが聴かまいが、”やった”やつだけなんだと気付いたらしい。何かを成し遂げた人だけが、ちゃんと上に行けるんだと。今の自分や周りは、なにひとつ成し遂げてもいないくせに「応援歌」を聴いて勝手に励まされては、成し遂げることなくまた落ち込んで励まされて、その繰り返しなんだと。本当は熱くて熱くて、火傷しそうなくらいの熱量のはずなのに、気付けばその熱さに慣れてしまう。挑戦するための勇気を奮い立たせるはずの歌が、いつしか自分を励まして癒してくれるぬるま湯に変わってしまう。


心臓から「ギクッ」と音がした。「ドキリ」ではなく、「ギクッ」だ。聞き間違えだったらいいなと思ったが、聞き間違えかどうかくらい、自分で分かっている。



その話を聴いてから、ちょうど2ヶ月が経った。
ぼくは今日も応援歌というぬるま湯に浸かっている。追い炊きボタンはまだ見つかっていない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?