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タダで働かせてもらう、という経験

大学生の頃、大学のすぐ近くにあった紅茶専門店で、二か月ほどバイトしていたことがあった。便宜上、バイトと言ったが、正式にはバイトではない。お賃金をもらってなかったのだ。なんか「お賃金」って、卑猥に聞こえるね。

タダで働かされていたわけではない。むしろ、タダで働かせてもらっていたのだ。

後から知ったが、その紅茶専門店は全国的にも有名らしく、50代の白髪でビシッとベストを着たマスターが、ひとりで営んでいるお店だった。大学のすぐ近くにあったが、大学生など寄り付かない。そこの紅茶が本当に美味しくて、マスターのこだわりようが常軌を逸していた。そこに惚れ込んで、ぼくは「働かせてください」と頭を下げたのだが、マスターが言ったのは「タダならいいよ」という返しだった。

ひとりで出来る分しか仕事をしないし、そもそもスタッフにやってもらうことがない。つまり、こちらとしてはお金を払ってまで雇うつもりはない。それでもいいなら、勝手に働いて、勝手に学んでくれる分には構わないよ、と。正直で、優しい人だなぁと思った。世の中には冷たすぎる愛情もあるのだと、あのとき初めて知った気がする。それに僕も了承して、二ヶ月ほど、タダで働かせてもらっていたのだ。

世の中の風潮として「自分を安く見積らない」とか「ちゃんとギャラをとれ」とか、そういう倫理観みたいなものが今の時代にはある。もちろん、言いたいことは分かるし、僕もそう思う。しかし、お金では代え難い経験があるのも事実だし、こちらから頼み込んでタダでもやりたい仕事だってあるものだ。なんなら、お金を払って「お客さん」をすることなんて、いくらでもあるでしょう。

いま自分がおもしろいと思えることは、タダでもやりたい。これは僕の軽いモットーでもある。そこにお金をいただけるなら万々歳だ。お金が発生するからこそ責任感が生まれるというのも分かるのだが、お金と責任感をイコールにしてしまうのは、ある種の暴力に近いものだとも思っている。それの極北が「お客様は神様」だったりするだろうし。

「やりたいこと」でお金をもらうこともできれば、タダで始める方法だってあるし、お金を払ってまでやりたいことだってある。そこにお金を介在させなくても、やりたいことはできるんだね。そして行き当たりばったりのようにやってきたことが、振り返ればいい経験になっていたり、無駄になっていたりする。「よかったなぁ」も「無駄だったなぁ」も、やってみなきゃうまれないことなんだよなー。

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