良いものを使えば、良いものができるのか?

「いいもの」を使えば、「いいもの」ができる、というわけではないことを、ある程度の大人は知っていますよね。本当にそうなら、昔の画材や道具でつくられた作品は、軒並み「いいもの」ではなくなってしまう。

いや、スポーツや競技など、基準が数字だったり明確にあるものは、その法則が当てはまるかもしれない。年々、記録が更新され続ける立役者には、選手自身や練習方法の進歩はもちろん、道具の進歩によるものも大きそうだ。実際、ゼロゼロ8秒でも速く走れる靴を作ることが仕事だという人もいるだろう。

ただ、その「いいもの」は、何も機能の”いい”だけを言っているわけではないと思う。その”いい”は、人それぞれなのだ。長年愛用している”いい”もあれば、愛着という”いい”もあるし、手や身体に馴染む”いい”や、機能や価格という基準の”いい”もある。

猿と人間と違いのひとつに「親指の筋肉」というものがあるそうだ。長母指屈筋と後面にある短母指伸筋、つまり「ものをつかむ」筋肉は、霊長類の中で人間だけが獲得した筋肉だという。(思えば猿は、木の枝を親指以外でつかむね)この筋肉のおかげで人間はものをつかむことができ、「道具」を扱うことができるようになったんだと。

道具を扱う、つまり神経が行き届いていない自分以外のものを、自分の一部のように扱うことができる。それはどこか、アニミズムの一翼を担っているような気もする。自分の手で扱う道具によって、様々なものをつくることができることは、自分以外のものに信仰や神様の存在を投影してもおかしくない流れにも思える。

しかし、だよ。本当のところは道具を扱わなくたって、できることはたくさんあるのだ。ペンがなくたって、地面に指でなぞって文字はかける。筆がなくたって、掌を使って絵はかける。もっと言えば、アイデアや発想と呼ばれるものは、頭の中で生まれるのだから手さえ必要としない。

それでも、人間の進歩を促したのはやはり道具の存在だろう。それは道具そのものが持つ役割や機能以上に、それを扱うために「身体を、頭を動かそうとする」ことこそが、人間のクリエイティブを刺激してきたように僕は思う。ぼーっと筆を持たずに生まれる考えなんて、実のところ、ほとんどないように思うのだ。

そう思えば、道具の良し悪しなんてのは、ささいな問題かもしれない。しかし、その「ささい」が大きく影響するのも、何かを扱う、何かから多大な影響を受ける人間の可塑性だよなぁ。

つまり、何が言いたかったのかというと、道具の良し悪しというのは、僕たちがその道具から受ける影響に比べれば、些細なものだと思う。しかし、その些細なものにもこだわりを持ってしまうのが、人間のクリエイティブとも言える。何だっていいし、良し悪しなんてものはそれぞれで持っていればいい。高級なものでも、使いやすいものでも、馴染みがあるものでも、機能的なものでもいい。それぞれの”いいもの”を使って、”いいもの”を生み出すのだ。

道具がすべて!だとは思わない。しかし、道具を扱う人のことを考えてつくられているものがあることは憶えておきたい。けれど、あくまで道具を扱うのは、その人自身だものね。「このペンを使えば、絶対にウケるコントが書けます!」なんて道具が生まれないのは、そういうことなんじゃないかなぁ。

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