時間を秤に掛けてみる。

*「過去」と「今」を天秤にかけたら、ほとんどの人が「今」に傾くと言うだろうね。じゃあ、「今」と「将来」という2つの時間を天秤にかけたとき、その2つは釣り合うのだろうか?

例えば今の一日と、10年後の一日は、釣り合うか?数字の上ではイコールで結びたくなるが、本当にイコールで結んでしまっていいのか、疑いたくもなる。もっと分かりやすくしてみるなら、1歳のときの一日と、40歳の一日とでは、まったく重さが変わってこないだろうか?

仮に、今日が峠だという患者が「明日が欲しい」と言ったとする。でも、本当に欲しいのは明日そのものよりも、「明日があると思って生きられる今」なんじゃないかと思いを馳せてみたりする。明日がないと思って生きる今がつらいから、明日を望むのではないか。

ずるい言い方をしてしまえば、「将来」というのも、そのときそのときの「今」であり、「将来がある」と思える今が欲しいのだと思う。「見通しをつける」というのは、その未来をより良くするためというよりも、今ある不安や憂いといったモヤを晴らすためにすることだ。

・「未来のために今を犠牲にする」といった考えは、おそれずに言うと、まちがっているのだ。その今が未来に繋がっているのであって、未来のために今をないがしろにしているわけではない。それが我慢の必要なことであろうと、目的や喜びがあれば耐えられる。それはけっして「今」を犠牲にしているわけではなく、未来のためにも今を生きているという、至極当たり前のことだ。それを犠牲と呼ぶのはまちがっているし、何より大切な今を犠牲になんかしちゃいけない。犠牲だと感じられるような今なら、見つめ直す必要があるのかもしれない。

そうだ、天秤の話をしていたのだった。「今」と「将来」、どちらに秤は傾くか。わざわざこんな言い方をしなくてもよかったね。今をちゃんと生きることが、将来”にも”繋がるというだけの話なのだ。

今できることを無視して、どうなるかも分からない将来を悩んだりすることは、すこしばかり怠惰のように思う。逆に、将来をちゃんと見つめた上で、今できることを考えたり、行動に移したりするのは、ちゃんと今を生きているってことだし、今の価値を知らず知らずに知っていることなんだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?