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子どもと対等に話す、ということ。

*電車に乗っているときのことだ。隣に座っていた人が、何かに気付いたように「あ」と小さく声をあげた。その理由を、僕は声を聞くのとほぼ同時に目に映る景色で理解した。明らかに席を譲った方がよさそうなご年配が、電車に乗って僕らの前に来ようとしていたのだ。反射的に足元に置いていた荷物を手に取り、立ちあがろうとする。隣に座っていた人は、僕のその動きを察して、立ち上がるのをやめた。そして結局、僕が席を譲り、その前に立つことになった。気まずかった。気付いたのは明らかに、隣人の方が先だった。僕は動き出しが早かっただけなのだ。隣人の優しさを横取りしたような気分になった。

小学二年生のちいさな友達に会ったとき、僕はなぜかこの話をしてしまう。悩み事のように、自然と口から出たのだ。小学二年生の彼女は、少しだけ考えたあと「人生でさ、そういうの全部きっちり考えなくていいのよ、まだまだ先は長いんだから」と言ってくれた。目から鱗、というか涙が出そうな回答だった。その答えを聞いた僕は、思わず言葉が出ず、「はー」と息を吐いてしまう。この年代の子が口にする「人生」という言葉には、言いえぬ何かがある。

そのことを、保育士をしている一番親しい人に話すと「ようやく子どもと対等に話せるようになったんだね」と言って笑った。僕は「いや、向こうがやっと僕と対等に話してくれた気がする」と返すと、「お、気付いた?その通りだよ」と相手が言う。「あんたが対等に話そうとしたから、向こうがちゃんと対等に話してくれるようになったんだよ」と。仕事で保育士をしている人間は、格が違う。本当にその通りだと思った。僕が対等に話そうとしたから、向こうが降りてきてくれたんだと。

子どもは好きだが、子どもが苦手だった。どう接していいか分からなかったからだ。変に可愛がるのも、相手をナメている気がして違うと思っていた。なんのことはない、ただの友達だと思って接すればいいのだ。というか、誰とでもそうだ。子どもをナメてもいけないし、高い高いをするような持ち上げもいけない。ただ普通に接すれば、相手も普通に接してくれることが分かった。自分みたいな不器用な人間は、こればかりは慣れていくしかないんだろうな。世の中の苦手なことの半分くらいは「慣れ」てないだけな気がする。


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