確率のはなし。

*「確率」という数学がある。大人なら誰もが知っていて、そして誰もが使ったことのあるやつだ。確率計算をして高い方、低い方、半々など便利なツールである。ぼくもゲームなんかをするときには、確率を計算して、より高い方を選んだりする。

ゲームでは確率の高い方を選びがちだが、こと自分の人生においてはどうだろう。確率の高い方を選んできただろうか。上手くいく確率が高い方、リスクが少ない方など、メリットデメリットを天秤にかけて、確率の高い方を選んだり選ばなかったりする。ただ、二十八年それなりに生きていると、「確率の高い方」が常に良い選択ではないことも知っている。

ギャンブルとか賭け事に例えたらよく分かるね。ポーカーでも、確率の高い方を常に計算できている人が勝つわけじゃない。むしろその土俵なら、ぼくたち人間は機械に勝てやしないし、仮にそういう人がいたとしても、プロの目から見ればむしろ、「常に最善手を選び続ける人」のほうが次の一手を読みやすいし、策に嵌めやすいのだと思う。

もちろん、そういう確率計算はすでに終えているでしょうよ。ただ計算した確率という数字をどう扱うか、というのにその人の勝負勘が出る。空気や流れを読んだり、ここだ!というチャンスに飛びついたり、愚者に見えるような行動が転機となることもある。むしろそれこそが、賭け事以前の「心理戦・頭脳戦」の面白さなんだろうね。確率を計算して、常に高い方を選び続けることは、いってしまえばただの計算問題で「作業」に近い。

目の前で起こる出来事や、自分を含めたそれぞれの選択が、常に確率の高い方に転ばないことをぼくたちは身をもって知っている。確率の低い方を選んだ人が多数派になる結果だってあるのだ。それはつまり、確率の高い方を選ぶことが、常によい手ではないことを知っているというわけだ。恋愛なんて、その権化みたいなものでしょうよ。

それは運とか縁とか、流れとか偶然とか、意図とか思惑とか、エラーとか失敗とか、恋愛とか感情とか、目に見えるものも見えないものも、あらゆるものががんじがらめになっていて、ひとつの「結果」を生み出す。その結果がたまたま確率の高いほうになったり、想像通りに行くこともあれば、確率の低い方に転んだり、誰もが見落としていた池にぽちゃんと落ちてしまうこともある。

「確率の高いほう」ってのはひとつの判断基準というよりも、あくまで要素のひとつなんだよな。それを判断基準に昇華させることはたまにあるけれど、あくまで一要素だと思っておいた方がいいかもしれない。常に確率の高い方を選ぶ人生は、上手くいく確率が高いのかなぁ?

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