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再会したいわけじゃないのに、会いたくなってしまった。

*小学生の頃、僕には友達がひとりしかいなかったように思う。それは商店街の時計屋の息子、N君だった。時計屋といっても、高級品を扱っているような店ではない。既製品の修理と古い品の販売、時計屋とは銘打っているものの、店内のほんどは婦女服で埋め尽くされた、いわゆるブティックと呼ばれる類いの店だった。N君はそこの一人息子で、時計にはめっぽう詳しかった。

N君は学校で「ノロマ」と呼ばれていた。実際、N君は勉強も運動も不得意で、クラスの中では日陰者だった。軽い吃音症も患っており、人前で話そうとすると必ずどもってしまう。しかし、2人で話しているぶんには、スローなペースではあるが会話に支障はない。僕はそのペースを気に入っていたのか、いつしかN君とよく一緒に帰るようになっていた。たまたま帰り道が一緒だったのもあったのかもしれない。きっかけは憶えていない。

N君は勉強も運動もてんでダメだったが、唯一、持久走だけは得意だった。足は遅いが、体力だけは抜群にあった。走っても走ってもペースが落ちず、学年一位の座を何年も我が物にしていた。そのことを話すと、「しんどいのは耐えれるんだ」と彼は言った。走り続けるはしんどいけれど、そのしんどさに耐えることはできるのだ、と。僕は真逆で、しんどいのが続くのはとても耐えられないので、スゴいなぁと言った。耐えてもいいことないよー、とN君はうつむきながら、どもらずに言った気がする。

あれから二十年近く経った今日、電車に乗りながらなぜかN君のことを思い出した。着けようと思った時計が止まっていたからかもしれない。それにしても、開いたことのない引き出しすぎて、一瞬、自分の記憶かどうかを疑ってしまった。N君は今、何をしているのだろうか。フルネームで検索すれば、情報社会の今、それなりに出てくるのだろう。再会したいわけではないのに、なぜか会いたくなってしまった。N君じゃなくてもいいから、そんな人に会いたくなってしまった。


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