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涸れた泉

*最近、もっぱら文章を書く手が止まってしまう。毎日書いているこの文章もそうだし、毎週書いているエッセイもとうとう書く手が止まってしまい、ストックがなくなって取って出しの自転車操業になってしまった。泉が涸れてしまったかのように、同じ場所を掘っても掘ってもついに何も出てこなくなった。この状態は怖い、怖すぎる。掘っても掘っても自分には才能がないことを、掘れば掘るほど痛感させられてしまうようだ。

昔、大槻ケンヂさんが何かのエッセイで「枯れるのが怖い」という話を書いていたのを憶えている。今はどうにか、掘って掘って出てくる泉からの水でやれてはいるが、いつかこの泉が涸れてしまったらどうしよう…自分は天才じゃないから、いずれ涸れてしまう、そこで自分には才能がないことがバレることが怖い、みたいな文章だった気がする。ちょうど数年前に読んだものだけれど、恐ろしいくらいに共感してしまった。

まさに今そんな状態、とゆーか涸れているのだ。掘っても掘っても、チロチロ…レベルの水滴が流れるほどで、その水滴をどうにかこうにか両手で貯めては、それでやりくりしているような感じ。今までと同じようなありあわせの食材だけでやりくりしてしまっている、そんな感覚がある。それではありあわせの、今までと似たような料理の繰り返しになってしまう。まだこの泉には何かあると信じて掘り続けるのか、まったく違う場所に移動しなければならないのでは?という思いの葛藤を、掘り続けた穴の中で考えている。

明らかにインプットが足りていないのもあるが、掘る場所を変えなければいけないのでは?という思いもある。掘っても掘っても何も出てこなかったとき、自分は絶望するのではないだろうか、という恐怖もある。何かをつくり続けている人は、常にこの不安と闘っているのだろうか。いや、才能があるとかないとか、上手くいくとか下手をこくとか、本当はそんなことどうでもいいのだろうか。それが自分のやるべきことだと分かりさえしていれば。

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