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A 自分だけにしか感じられない悪臭の話

体験者:唱さん/30代男性(取材年月日:2022年9月8日)

 私たちの五感の一つをつかさどる嗅覚。鼻から入ってきたにおい物質を感知し、それが「良い匂い」=安全か、「嫌な臭い」=危険かを判定する役割を持っています。
 嗅覚は他の感覚とは違って、感情をコントロールする脳内の「大脳辺縁系」と直接繋がっています。そのため五感の中でももっとも原始的、本能的な感覚であるとも言えるでしょう。しかし実は、嗅覚の研究というのはそれほど進んでおらず、未だに多くの未知を秘めた器官でもあるのだそうです。
 そんなわからないことが多い嗅覚にまつわる不思議な体験をした人も、世の中にはいます。
 たとえば――自分だけにしか感じられないにおいがあった、としたらどうでしょうか。

酒屋に来る女性

 30代の男性・唱さんが、浪人時代に地元の酒屋さん(酒類販売店)でアルバイトをしていた時のお話しです。

 唱さんには、お店によく通ってくるお客さんたちの中にひとり、気になる女性がいました。
 それは一週間に一回くらいの頻度で見かける、会社員風の女性です。年の頃は20代くらいでしょうか。外見に特に変わったところはなく、どこにでもいるようなごくごく普通の佇まいでした。

 ある日出勤した唱さんは、バイト仲間にこう尋ねました。
「……今日もあの女性、来てましたか?」
「ああ、来てましたよ。でも唱さんが出勤する20分前くらいには帰りましたけどね。よく来たのがわかりましたね」
「やっぱり……」
 バイト仲間の返事を聞いた唱さんは、深くため息をつきました。

 気になる、と言っても唱さんはその人に好意を抱いていたわけではありません。むしろ彼は、その女性のことがとても苦手だったのです。
 なぜなら彼女は、とても酷い悪臭を放っていたからです。

 その臭いは女性がいなくなっても店内の至るところにこびりついているほどでした。だから唱さんは女性が帰ったあとに出勤しても、彼女が来たという事がわかったのです。

生理的に無理!

 女性が放つ悪臭とはどのような臭いだったのでしょうか。
 唱さんの話によると、それは凄まじいまでの青臭さで、草というよりも虫が放つ臭いに近いもの。一番イメージが近いのはカメムシの臭いだそうですが、それを何倍・何十倍にも強烈にしたような激臭なんだとか。
 においが少し鼻に入っただけで、立ちどころに吐き気に見舞われたといいます。一瞬嗅いだだけで、内臓を物凄い力で鷲掴みにされたような感覚に襲われる、というのですから相当です。
「生理的に無理、って言葉があれほど似合う臭いもありませんよ。本当に……」
 臭いについて説明してくれた唱さんは、いかにも気が滅入った様子でそう語りました。

 しかし不思議なのは、唱さんがそれほどまでに苦痛を覚える激臭を、他の人は誰も感じないということでした。当時酒屋には唱さんを含めて5人のバイト達がいましたが、誰に聞いても女性から臭いはしないと言うのです。
 唱さんが女性の残り香が漂っている場所に連れて行って嗅がせても、みんなきょとんとするばかり。
 本能的に逃げ出したくなる臭いでしたが、お客さん相手なのでそういうわけにもいかず。唱さんは苦痛な思いを抱えながらも、生活環境の変化にともなって住居を移すまでバイトを続けました。

東京でも会ったんだ

 唱さんは地元から東京に出て就職しました。
 それからかれこれ15年近くになりますが、その間に2度ほどまったく同じ臭いに遭遇したのです。

 一度目は、大勢の人でごった返す満員電車の中でした。「あの臭いだ!」とすぐに気づいた唱さんは、電車の中で息を止めてまわりを見回しました。においの発生源を探ろうとしたのです。
 しかしあまりにも人が多くて、誰から臭っているのか特定することは出来ませんでした。ただでさえ人混みで大変な満員電車に、そんな激臭まで加わっていたのだから大変です。唱さんはほうほうのていで電車を降りました。

 二度目は、道を歩いている途中でした。急にあの嫌なにおいが鼻をかすめ、唱さんは思わず足を止めました。
 今度は誰が臭いを漂わせているのかハッキリわかりました。自分の目の前を歩いているOL風の女性です。
 進行方向が一緒だったので、やむなく唱さんは息を止めながら女性の後ろを歩いていきました。唱さんは彼女の後ろ姿をそれとなく観察していましたが、特に変わった様子は見られません。
 反対側から歩いてくる人たちも、何食わぬ顔で女性とすれ違っていきます。唱さんのように女性の悪臭に反応している人は一人もいませんでした。そういえば満員電車の中でも、混雑はともかく悪臭に苦しんでいる様子の人はいなかったように思われます。

 やっぱりこれは、自分だけにしか感じられない臭いなのかもしれない……3度の経験を経て、唱さんはその思いを一層強くしたのです。

解釈

 唱さんは自分なりに、悪臭の正体について考えてみました。
 まず、今まで悪臭に遭遇した3回の体験を振り返ります。満員電車のケースだけは特定できませんでしたが、それ以外の2つのケースでは臭いの発生源が女性でした。3例しかないので断言はできませんが、女性特有の臭いという可能性もあります。

 実は唱さんは酒屋に勤めていた浪人時代に、臭いの正体について一つの仮説を立てていました。それは、「あの臭いは人間の死臭ではないか」というもの。世の中にはさまざまな臭いがあるけれど、あれだけの生理的嫌悪感を抱かせる臭いというのは、やはり特別なものではないか。あの女性は病院や葬儀社など、常日頃から人の遺体に触れるような場所で働いているから、衣服にもその臭いが残留していたのではないか、と思ったのです。
 しかし上京してから唱さんは、それは違うだろうと思い直しました。亡くなった人の臭いを実際に嗅ぐ機会があったのですが、あの青臭い悪臭とはまったく種類の違う臭いだったからです。

 ではあの悪臭はいったい何の臭いなのか――。疑問を抱えながらぼんやりとネットサーフィンをしていたある日、唱さんはとある掲示板の書き込みに目が釘付けになりました。
 そのスレッドを建てた女性は「死の間際にいる人間から漂ってくる、特殊な臭いがわかる」と豪語していたのです。唱さんは彼女の書き込みをじっくりと読み込みました。スレ主の女性曰く、死期がすぐ迫っている人の体からは独特の臭いが漂っていて、それは自分だけにしか感じられない。自分が臭いを感じた人は必ず近いうちに亡くなった――というのです。
 彼女の語る臭いというのは、唱さんだけが感じる悪臭とは違うものでした。でも、もしかしたら――。唱さんは考えます。
 酒屋で会った女性も、東京で出会った2度の例も。いずれもお客さんや行きずりの関係で、親しい間柄の人間ではない。彼女たちがその後どうなったかなんて、唱さんには知りようがないのです。もしあの悪臭が、死ぬ前の人間から漂ってくるにおいの一種だとしたら――。

 唱さんは悪臭の正体を知りたいと思うと同時に、自分の周りの人たちからその臭いがしないことを祈っています。


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