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自分の時間を生きる

会社の同僚とゲームの話になったのだが、自分のアカウントを知られたくないから知り合いとゲームをするのは躊躇われるという。誘われたら断りにくいし、かといって誘われないのも何だか寂しい。いかにも、よくある悩みだなと思って聞いていた。

自分はゲームのことに明るくないけれど、スマホでプレイするゲームくらいならばやる。でも、それはほとんど閉じられた空間の話で、基本的に自分がプレイしていれば完結する。やらなければ進まない。ただ、それだけだ。しかし、世の中のいわゆるソーシャルゲームの類は人と協力しなければいけない仕様になっているものも多い。そういうゲームをプレイするにあたって、他の人とコミュニケーションを取る必要がある。それで難しいところをクリアできる。ハマれば面白いだろう。しかし、それに義務感を覚えてしまうため、まるで仕事のように感じてしまうこともあるという。せっかく楽しくやるはずのゲームなのに、そんなことになってしまっては…と思う。

据え置き型のゲームは自分の世界だけで完結していた。人とやることはめったになかったし、だからこそ時々友達とやる時がとても楽しかった。"ソーシャル"とつくようなゲームは、ゲームが先に来ているものではなく、あくまで"繋がり"のほうに重きが置かれているのかもしれない。ゲームはあくまで手段で、人との交流を持つことが主目的なのだろう。

この時にも同じことを書いたのだが、繋がらないという選択肢は残しておくべきだと、今日の話を聞いていても思った。自分のやりたいことをやるためには周囲からの情報を遮断する必要がある。それが原因でストレスになってしまうのは元も子もない。それに自分が集中できる環境は、意図的に作り出さないといけないのだ。その環境とは、時間のことかもしれないし、場所のことかもしれない。自分がこれなら集中できるというポイントを見つけ出して、そこに持っていくことが自分の人生を生きるという上では大切なことなのだろう。

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