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何事も八分目思考。

新年早々膝を痛めるの巻。

 只今、右膝の調子が悪い。大人しくしている分には問題ないし、競歩レベルで歩かなければ痛まない。しかし、自転車に乗ると痛みを感じる。自分の身体だから、原因は分かっている。

 普段、人混みにウンザリしている都会人だからか、気を抜くとムスカ大佐の名言を連発してしまうが、年末年始となると話が変わってくる。普段、まともに走れないような場所を、愛車のミニベロで思う存分爆走して、利き足ばかり負荷が掛かり、調子に乗って気付いた時には限界を超えて関節を痛めたのだろう。やりがちなパターンである。

 おまけに医者嫌いだから、整形外科や整体を受診しようとすら思わない体たらくで、耐え難い痛みでなければ、基本は生物に備わっている自然治癒力に身を委ね、しばらくの間おとなしく過ごして、忘れた頃にまた調子に乗っては軽く後悔することを何度も繰り返しているから、本心としては大した後悔ではないのだろう。だからこそこの悪癖が治らない。

 私の辞書にあった「努力」と「根性」の言葉は、とっくの昔に消去して存在しないが、ひとつのことに熱中すると、目の前のこと以外を気にしなくなる嫌いがあり、注意欠如という意味でADHD気質な部分があるのかも知れない。今思い返すと、膝が笑っていたのに脚を労らず、全力でペダルを踏み込んでいたような気がする。

 とはいえ、脳の成長が偏っている割に、突出した能力が発揮できているようにも思えないため、境界線にギリギリ届くか届かないかの、極めて中途半端な状態なのだろう。

 身銭を切って病院で検査をして知ったところで、「それで?」と何も変わらない未来が容易に想像尽くし、何より医者嫌いである。

注意欠如な反面、高次な能力。

 突出した能力が発揮できているようにも思えないと含みのある表現となったのは、空間認知能力をペーパーテストで計ると高度側の異常値が出るからで、どうやら世間一般の人とは空間認知のプロセスが異なるらしいが、自分の状態が標準だと思っているので、他者との違いがいまいち分からない。

 発覚したのは高校3年生の夏。鉄道会社の採用選考を受ける場合、一部の事業者で鉄道総研が作ったNR式知能検査というペーパーテストが採用されており、これの模試を某専門学校が就活生を対象に、就活がダメだった時に自分のところに来て貰うためのエサとして、無償で出来ると聞いたので受けた。

 この項目に空間認知能力の項目があるが、そんな大それた検査ではなく、サイコロの展開図でどの面が接するかを問われるものである。内田式クレペリン検査同様に、人間業ではとても終わらない出題量で、正当数-誤答数で点数化することから、いかに正確で要領よく解くかが試されている。

 そこで全問正答して同じ模試の受験者で推定1位タイ。偏差値が90超と言う見たこともない数字を叩き出してしまった。一瞬見ただけで答えが分かるとだけ記すのも気が引けるため、あえて言語化するなら、脳内でゲームキューブの起動画面よりも数倍高速で転がす感覚で展開図を組み立てられる。

 とはいえ、処理能力が高すぎるため、見た瞬間に直感でマークシートを塗れば全問正答してしまうため、私にとってサイコロ問題のボトルネックは、問題そのものではなくマークシートである。

 しかし、鉄道業界御用達の内田式クレペリン検査やNR式知能検査の厄介なところは、作業量が低過ぎると弾かれるのは当たり前として、高過ぎても異常値として弾かれるらしいため、私は就活時にアンダークロックをして、考えているフリをして休憩する荒技でパスした。

 そのため、そもそも検査の存在意義がよく分からない。クレペリン検査も、異常値が出て再検査をパスするまで、乗務できなくなるため、管理職が欠員が出たら困る泣き所の時期なら、リミッターを解除して高度な異常値を叩き出すように努めているが、睡眠不足の非番で受けると上手くいかない時がある。

 そんな高次な能力も、道を覚えるとか、大型ショッピングモールの駐車場でどこに停めたかには使えない。他人にアレ取ってと言われても、やはり認識が異なるのか、私には目の前にあるモノの情報量、すなわちノイズが多過ぎて、アレでは分からない。

 ドレと聞いてもアレと言われれば、仕方なしに適当に取ると、毎回見当違いなものを取っているらしく、今は誰からも頼まれなくなった。それくらい実生活で活かされない能力で、代償として注意欠如の嫌いがあるのだから、メリットとデメリットが釣り合っているとは到底思えない。

余白を埋めない勇気。

 身体が丈夫な部類ではないのに、何かに熱中していると全く労わろうとせず痛める。持ち前の空間認知能力は無用の長物となっている。前者が0で、後者は100のような状態である。

 パレートの法則が正しければ、2割の労力で8割程度のクオリティにはなるらしいが、8割から10割にする2割を突き詰めるのに、8割の労力が必要らしい。意識高い系の自己啓発書なら、10割の労力で100点を目指すよりも、2割の労力で80点を5つ取って合計400点を目指そう的なことが記されそうなところである。

 私は何事も8割に留めることに関しては完全に同意するが、労力だけ10割使い切る発想はナンセンスで、単なる器用貧乏になりかねない。労力も8割で320点の方が余裕があって良いじゃないか。

 チャンスを掴むためには、それを取り入れるだけの余白が必要である。何かを始めるなら、同時に何かをやめなければ、詰め込んでいつか無理が生じてしまう。

 心理学の世界で、人類は余白や空白があると埋めたくなってしまう生き物らしいが、あえて余白を埋めない習慣を身に付けて見ると、慣れるまでは気持ち悪さで落ち着かないかも知れないが、慣れると絶対に必要だと必死になって埋めていた何かが、ノイズだと感じる程度に感覚が研ぎ澄まされ、足るを知るの精神が養われるかも知れない。


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