見出し画像

持続不可能な大量生産大量消費社会。

兎にも角にも、もったいない。

 先日、年に一度会えるかどうかの同級生が遠く遥々遊びに来てくれたので、晩酌するのに鰻屋でテイクアウトした。これだけ聞くと、ブルジョワ感が漂うが、なんてことはない鉄道員である。年収にして400万円が関の山と、世間が思うような高給取りとは程遠く、標準報酬月額も26万円と高額療養費制度利用時に低所得者扱いで上限が定額となる部類である。

 だからこそ身の程を弁えて、常日頃は質素倹約を徹底しているが、ここぞと言う時には惜しみなくお金を使う。それがお金持ちとしてのあるべき姿だと盲信しているため、自身がそうなる前から実行してみては、セルフイメージとモチベーションを高めている。

 以前ならそれ以上の深い理由などなく、ただ単に形から入っているだけの、にわか仕込み的な側面が否めなかったが、大病を患い20代半ばにして人生の終わりを意識するレベルの、強烈体験をしてからと言うもの、最期に人生史上一番のお金持ちになっても仕方がないことを悟り、心の底からここぞと言う時にお金が使えるようになった。

 そうして、本業の傍らで資産運用するようになり、年収より一桁大きい額の金融資産を築き上げる前からの同級生は、お金目当てで近寄っていない確証が得られる数少ない存在であり、鰻だろうがお高い日本酒だろうが、気にせず振る舞えるのである。これから出会う人たちの大半は、そこまでの信頼関係が築ける自信がないからこそ、何の利益になるかも分からない頃から付き合いのある旧友をより一層大切にしようと思うのである。

 そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、食卓には付属していたが結局使わなかった鰻のタレと未開封の山椒だけが残されていた。宴を終えた後日、日常という名の現実世界に引き戻された私は、ひとりでにタレと山椒をご飯にかけ、普段とは異なる質素倹約な一品を、先日の思い出と共に頬張った。

 誰かが見ているわけでもないのだから、タレご飯がケチ臭いとか、貧相だなんて微塵にも思わない。むしろ、使えるものに手を付けずに捨てることが、豊かさの象徴だと思っているのなら、将来手痛いしっぺ返しを食らうことになるかもしれない。

 食料自給率が4割に届かず、一人あたり年間40kg超の食品ロスを発生させていると試算されている、豊かさを履き違えている国の民としての当事者意識、もったいない精神が欠如している。文明批判をするつもりはないが、禿げ山の功罪こそあるものの、鎖国状態でも文明が15代もの間、持続していたとされている、江戸時代の暮らしぶりを見習う頃合いなのかも知れない。

短期的な利益よりも、長期的な展望。

 そうやってタレご飯を食べる自分を正当化しつつ、4袋も余った山椒を全投入し、口を痺れさせながらもタレご飯を噛み締めるうちに、阪急百貨店のソーライスの逸話を思い出した。

 世界恐慌の煽りから、当時阪急百貨店の食堂で最も安い5銭のライスだけを頼み、テーブルに備えてあるウスターソースをかけて食べるライス、略してソーライスである。もちろん、百貨店側は利益にならないため禁止にしたが、阪急百貨店だけは違った。

”小林一三は、ソーライスを禁止するどころか、ライスだけのお客様も歓迎いたしますと張り紙を出した。これには疑問を投げかける店員もいたが、小林は「こうしたお客様は、今は若くて貧乏かもしれないが、それでも阪急百貨店に来てくれている。この人々がやがて結婚し、子供ができた時、家族みんなでここに来てちゃんと料理を注文してくれる時がきっと来る」と持論を解き、自分で福神漬けを配ったとの逸話も残っている。
 自分たちの利益だけでなく、人々の幸せを考え、豊かな生活を送れるように、自分たちにできることを実行する。そんな小林のポリシーを示す、なんとも心温まるエピソードではないか。ちなみに、後に財を成した人々が食堂を訪れ、あえてライスだけを注文してその代金以上のお金を置いて帰ると言うこともあったと言う。これまた、ケチだが人情に篤いと言われる関西人らしい話だ。”

関西人はなぜ阪急を別格だと思うのか|伊原 薫

 この頃の明るい未来を信じて疑わなかった、希望に溢れる日本社会を感じる、私の好きなエピソードである。この話を思い返すたびに、若くて貧乏な者を排除する冷酷な現代社会こそ、婚姻件数の減少、少子化の根源であり、バブル崩壊後に成人した就職氷河期以降の世代を、利益にならないからとマーケティングから切り捨てた企業は、手痛いしっぺ返しを食らっても自業自得だと感じてしまう。

 それくらい、短期的な利益を追い求めることと、長期的な展望に基づいた行動は相反する関係にある。現代社会は変化が目まぐるしく、先行きが長期になればなるほど不透明だからこそ、より一層、短期目線で物事を決定してしまう。

 急いでお金持ちになろうとしてはいけないのと同じで、急激に大きく成長しようとすれば、十中八九反動が生じる。利益を最大化するための、大量生産大量消費社会の反動こそ、廃棄物と言う副産物的問題を生じさせているのかも知れず、資源の残存量や最終処分場の寿命を鑑みると、これらが持続できるようには思えない。

 製造者に処分する責任まで負わせる法律になっていない現状では、消費者側が処分するときのことまで考えて、ものを吟味して買うしかない。そういった取り組みひとつひとつは地味で微々たるものかも知れないが、それが社会全体に波及すると将来世代に恨まれずに済む位の力になるかも知れない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?