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人を見た目で判断してはいかんのです...


お金持ちほど、成金アピールをしない。

 先日、小学生が同級生から93万円詐取されたニュースが話題となった。100万円持ってる俺、カッケー的な自慢をしてカモられた格好だろう。

 幼少期を振り返ると同級生で似たような成金マウントはあった。どうしても通いたい私立校があるから、100万円貯めました的な堅実アピールだったと記憶しているが、それだけ貯蓄できるだけのお小遣いを貰えている何よりの証拠である。

 他人様の家にお邪魔していた分際で、格付けするのもいかがなものかと思うが、特段貧しい家庭だった印象はなく、共働きなのに片親パンを一通り食べ尽くした私の家には無かった、最新の据え置き型ゲーム機が置いてある辺りに、経済格差を感じたのは記すまでもない。

 私はその話をダシに使い、〇〇ちゃんは私立行くために100万円貯めたらしいよ。今のお小遣いだと83年掛かっちゃうから凄いなぁ〜あれれ~おかしいぞ~と、名探偵コ○ン顔負けのちょっと抜けている子どものフリをしながら、増額のプレッシャーを掛ける策士であった。

 それはさておき、人は往々にして、お金持ち=偉い的な構図を思い浮かべがちだが、因果関係が逆である。

 世の中の役に立つ事業を立ち上げて規模を拡大した起業家や、プロの世界で結果を出したスポーツ選手やアーティストなど、社会に大きな影響を与えた名誉ある人が、結果としてお金も得られる社会構造となっているだけであり、お金だけを手にしたところで、名誉が得られる訳ではない。

 成金アピールとは、その辺りの因果関係を履き違えている人が、自己顕示欲を満たしたいとか、情弱を騙して一儲けするための演出的な、名誉とはかけ離れた領域での愚行と考える。

 悪意を持つ他人からワンチャンゆすれば金になるかもしれないと、強盗の標的として狙われるような、不用意に自らを危険に晒すリスクを取ったところで、金目当ての奴にしかチヤホヤされないのだから、どう考えてもリターンが釣り合っていない。

 それゆえに、お金の扱い方に長けているお金持ちほど、成金アピールをしないのは自明の理だと思うが、いかがだろうか。

貧乏学生だと思われて草だった件。

 私も先日、旅行先の温泉宿を連泊した2日目に、朝、フロントに預けた部屋の鍵を受け取ろうと声を掛けたしたところ、「お兄さん!温泉の方でしょ!隣の券売機で買ってね!」と、ベテラン女将に温泉だけ利用しに来た日帰り客と思い込まれて草だった。

 確かに温泉”も”利用するが、宿泊者には自動付帯であり、初日に宿泊日数分の入湯税を支払っているのだから、入浴券を買う必要はない。「昨日から(部屋番号)で連泊している〇〇です」と伝えたところ、「大変失礼しました」と即座に鍵が出てきたが、身なりから絶対に宿泊しない貧乏学生だとナチュラルに思われたのだろう。

 確かに日頃から成金感を出さないよう、身に付けるものは吟味している。天邪鬼な性格なのも相まって、多数派が選ぶものは決して選ばない。

 流行は追わない主義なので、どこまで世間のトレンドを正確に観察できているか未知数だが、若年層に流行りの冬着がノースフェイス、ユニクロ、ナイキの3点セットだとすれば、私はモンベル、無印良品、ニューバランスで敢えてダサいおじさん感を醸し出す。

 若いのにノースではなくモンベルを着ている=本当はノースが欲しかったけど、高くて買えずモンベルで妥協した残念な人感が出ることで、着ている衣類のグレードは高いにも関わらずマイナス補正が掛かり、お金を持ってそうには見えない身なりを演出できている。

外れ値は狂気から生み出される。

 そんな貧乏学生だと思われて草だった件をつまみに、旧友宅で飲みながら、プロフェッショナルのジ○リ回を鑑賞していた。

 10年前のジ○リ回の映像は、ドキュメンタリー映画「夢と狂気の王国」にも投入されていることに因み、名作には狂気じみた「何か」があるからこそ、情報過多の時代でも埋没せず、不朽の名作であり続けるのだろう的な抽象的な会話が弾んだ。

 昨今、ChatGTPをはじめとする生成AIの台頭により、既存の職業の在り方が変わる期待半分、失業の不安半分な状況となっている。

 私は情報工学の学位を持っている訳でもなければ、データサイエンスで実績がある訳でもないため、一介のミーハー以上でも以下でもないものの、現状の生成AIの根幹となっている機械学習の技術は、あくまでも平均や中央値的なアウトプットに過ぎず、今のところ、外れ値のアイディア出しに使える類の代物ではないと判断している。

 これが何を意味するか。90年代にインターネットで情報が民主化されたことで、人間は記憶力よりも、必要な情報を引き出せる検索能力の方が重要になった。

 そして、30年後の現在、入試も調べれば答えが出ることを単に暗記する能力よりも、与えられた情報をどう解釈し、適切に処理するかが問われる傾向に変わりつつある。

 アルトマン氏がAGIの能力を説明する際に、「中央値の人間」と表現してひんしゅくを買ったが、かつて重宝されていた記憶力の良い人が、今はコンピュータに代替されているように、近い将来、中央値の人間が必要とされなくなる世の中に変貌する可能性は、それなりにあると踏んでいる。

 日本社会では未だに同調圧力が強いものの、他人とは一味も二味も違う外れ値の人間、いわゆる変人が、今の生成AIが進化しても、代替されづらい存在として重宝される気がしてならない。

 考えてみていただきたい。月曜から夜ふかしの取材を受けるような、平日の昼間に飲んだくれている人種の中にも、想像通り激ヤバのパターンと、経営者などで実は凄い人の二択となる。

 これは、中央値のサラリーマンはその時間帯に仕事をしていて、老人を除くと外れ値の人しか残らないからで、そうした狂気がコンテンツとして成立しているのは、中央値の人が取るに足らないことの暗喩でもある。

 人を見た目で判断してはいけない。もしかしたら、めちゃくちゃ凄い人の可能性があるのだから。ただ、もし想像通りの激ヤバだったとしても、責任は負えない。


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