忙中閑あり:瞑想の用

安岡正篤の六中観の「忙中閑あり」の節では、「ただの閑は退屈でしかない。ただの忙は文字通り心を亡ぼすばかりである。真の閑は忙中にある。忙中に閑あって初めて生きる」とあります。

私の社会人生活を振り返ると、予備校の寮の寮監をしていた学生時代の部屋の固定電話がなった時から全ては始まっています。

自衛隊のような体育会での疲弊した学生生活で、先行きに見通しが全くない時の1本の電話により、社会人生活が始まりました。

20数年間を総括するに、「激」「劇」「忙」「疲」等々の単語は浮かびますが、最近になって、漸く、「忙中閑あり」と言える自分だけの時間と場所が出来ましたので、嬉しいご報告となります。

それは、会社近くの「大国主命」を奉る神社境内での、妻が握ってくれる「おむすび」を食べる昼休みです。

「静寂」、「孤独」の中での「神聖な場所」での昼ご飯は、「おむすび」をぱくつくと、「瞑想」にふけるのにちょうど良い時間となっています。

毎週末のスイミングの時間とはまた異なる次元での「瞑想」により、自然と毎日が深い眠りにより心が活き活きして生活できています。

「大国主命大神」は、「だいこくさま」として親しまれていますが、「豊葦原の瑞穂の国」を建国された「むすび」の縁起のいい「出雲大社」が有名です。

私の近くの神社も、付近のサラリーマンやOLの方たちが、一人二人と来訪されては参拝をされています。

「神頼み」と言ってしまえば失礼な話であり、神聖な心持で昼休みに参拝される姿は、神社の静寂の中で、荘厳な空気を感じます。

この「瞑想」においては、自らを「観察」し、そして、頭の中を「無」にすることで、逆に頭の中に浮かぶ事象や思考を改めて「観察」し、そのまま「漂わせ」ています。

これは、「マインドフルネス瞑想」とは違うのかもしれませんが、「瞑想」を生活に取り入れたことで、終わりを告げる「平成」が漸く自ら実現できたように感じ、新しい「令和」を受け入れる準備ができたように感じています。さらに、「人生」の「集中力」が高まり、「勝負勘」まで高まっていく気がしています。

かねてより、神様を始めとして誰の信者でもなかったのですが、普通にこの神社が「尊い」と感じます。

私は、ここが特別なお気に入りの隠れ家で、公開しても人だかりにはならないから大丈夫だと思って投稿しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?