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文化系行事とやる気の火加減

 学校という空間では"体育会系の行事"と"文化系の行事"で求められる適切な熱量が異なる。

 "体育会系の行事"は一生懸命取り組まないとカッコ悪いが、"文化系の行事"の行事は一生懸命取り組むとカッコ悪い。

 都会の学校のことは知らんが、少なくとも地方の学校ではそうだろう。けれどきっとたいして変わらない。じゃなきゃ合唱コンクールでリーダー格の女子が言う「ちょっと男子〜ちゃんと歌いなさいよ〜😠」ってアレは全国でネタにされない。

 なんなんだアレ。運動会のクラス対抗行事でリーダー格の生徒が言う「もっとやる気出そうぜ、足引っ張ってる奴も一致団結しようぜ」的な呼びかけはどうやら感動されるようだが合唱コンクールの方はバカにされる。当然のことのように思っていたが考え直すとワケがわからない。

 私もそういう環境で育ってきたため、これが当たり前のように感じていた。合唱コンクールや写生教室、カルタ大会などは"ダルいけど授業だから仕方なくやってる自分"を演じていた。内心全部好きだった。

 写生大会の時は、本心では規定の時間いっぱい絵を描きたかったが、周りの「つまんねぇから適当に終わらせて早く帰ろうぜ感」に抗うことができなかった。すると写生大会が”不本意に適当なものを作らされる時間”変身するので、正真正銘"つまんねぇ"ものへと成り果てた。ダサいから言い出せないだけで、一生懸命やりたかった人は結構いたんじゃないかと思ってる。

 カルタ大会の時も似たようなものだった。まさにあの行事こそ"やる気の火加減"の微妙な調整が要求される。カルタ取りはチーム戦であるため、ある程度札が取れる必要があるが、取れすぎてもいけないのだから。

 札を覚えすぎると、取りすぎると「何こんな行事にムキになってんの?」という態度を取られる。〇〇ボール大会や長縄跳びでは気合を入れて朝練をしたりすると"気合が入ってる"という扱いになるが、こっちは"ムキになってる"と解釈されるらしい。

 改めて考えてみると自分がいかに卑屈な児童だったかがよくわかる。おそらく文化系の分野で成功している人、世間的な成功はなくても自分で納得のいく充実した活動を行なっている人だってこの気味の悪い"やる気の天井"を体感したはずだ。

 柔らかく美しい感性の芽生えに除草剤をブチ撒けるかのようなこの風潮に、毅然と立ち向かえた子どもだけがクリエイターやアーティストとして成長していけるのだと思っている。それかチャチな壁なんか認識できないくらいの強い情熱が幼い頃からメラメラと燃えていたのかも。火加減のつまみはいつだって左に振り切れているんだぜってね。

 私のつまみは今になって左に回り始めたよ。


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