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あなたはAIですらない~ゲーム【For the GHOSTs】感想(本ゲームと、ドキドキ文芸部のネタバレを含みます)


このゲームを遊んだきっかけ

Steamのおすすめ機能「ディスカバリーキュー」で偶然流れてきて、まず「女の子がかわいい!」と思い、レビューを読んで「これはなかなか奥が深そうなゲームだぞ」と感じたため購入しました。ほいでそのまま遊び始めました。

キャラクターが持つ(っているように見える)意思の徹底的な否定

仕組みはとてもシンプルなノベルゲームで、ゲーム内に用意された部屋に入ると、そこにいるキャラクターと会話することができます。それだけといえばそれだけ。

私がプレイヤーとしてはじめに話したのは倉庫にいる「ねずみ」ちゃんでした。彼女は人懐っこい性格なようで、気になっている花の話や、自分の友達の話をしてくれます。
次に会いに行ったのはアクアリウムにいる「さかな」。彼は臆病で引っ込み思案のことですが、自分については一番多く語ってくれたんじゃないかと思っています。彼はほかのキャラクターと違って肉体(立ち絵)を持っていないため(おそらく自分で捨てたと思われる)、肉体の存在やその在り方について話してくれることが多くて楽しかった。
最後に管理人室で「彩度」と「Acryl」の二人と話しました……が、一つの部屋に同時に存在することができるのは二人までということで、私が入ると彩度かAcrylのどちらかが追い出されてしまい、一方ずつとしか話すことができませんでした。紅茶や花の話をしました。

ねずみ、さかな、彩度、Acrylの四名は、自分がただテキストファイルに沿って会話をしているようにふるまうだけのキャラクター(プログラム)であることを自覚している、そのようにふるまいます。「現実のアナタ(プレイヤー)」と「虚構の自分(プログラム)」を明確に区別し、自分たちが後者に位置することを知っているようにふるまう、ように、ふるまいます。面倒な言い方をしているのはここに物語を認識する上での壁がふたつ存在しているからです。

作者
ーーーー(壁1)ーーーーー
私(プレイヤー)
ーーーー(壁2)ーーーーー
ねずみ、さかな、彩度、Acryl

上記のような階層に分かれていると仮定したとき(この分類や名称が最適なものとは思えませんが、これ以上の表現を思いつくことができませんでした)、下に進むにしたがって、行動と意思の自由度が減っていきます。しかも壁2においては壁1とは比較にならないほどの減少幅がある……というか、当然ゲーム内のキャラクター達に行動と意思の自由なんてものは一切存在しません。

別のゲームの話をします。「ドキドキ文芸部」最終盤でモニカから話しかけられた時のあの驚き。最終的に「ドキドキ文芸部」はモニカによってゲームを遊べない状態にさせられてしまいます。そしてモニカ自身はまるで意思を持っているように(上記の「モニカによって」という表現からも意思の存在を感じることができます)プレイヤーには感じられます。彼女自身が「私たちはあなたを好きになるようプログラムされているの」と悲しそうに語る一方で、少なくとも「だからもうこのゲームは終わりにしましょう」という決断はモニカの意志であるように描かれていたからです。

一方For the GHOSTsでは「あくまでも私たちは用意されたテキストとプログラムでありそれ以上でも以下でもなく、あるとすればそんなデータの読み込みと応答に対するあなた(プレイヤー)の感情だけである」と突き放される場面が何度も登場します。モニカに比べるとFor the GHOSTsにおけるキャラクターの意志の否定は徹底されています。しかしそれは決して「冷酷さ」「非情さ」ではないように感じられました。実際、このゲームを遊んでいて寂しいとか物悲しいとかいう気持ちになることもありましたが、全体を通して温かい雰囲気を感じ続けていました。

「ゲームのキャラなんてなあ! ただのプログラムとテキストデータと絵なんだよ! しょーもねえもんに入れ込んでるなあ!」といった露悪的な目的は、一度も感じませんでした。


キャラクター(プログラム)の「私」はどこから?

このゲームで一番好きなテキストを貼り付けます。

わたくしが感じているそれと
同じぐらい
あなたが大事にされますように。

わたくしも、そう
あなたや彩度をどうか
大事にできますように。

あなたが心地良いと思える距離感を
保てますように。

あなたが大事にされていると
思えるような人が
あなたの周囲にいますように。

わたくしは
そう祈っています。

これはAcrylの発言。またねずみはかつて共に過ごした友人の好きなもの、その友人の好きなところをいくつもいくつも挙げ、それらを忘れたくないと言います。さかなは自分の捨てた肉体の感覚を欲しています。彩度はまたねずみのようにAcrylの好きなところを挙げ、Acrylは彩度のかわいいところを教えてくれます。彼らは「お互いに話す」ということが(基本的に)できないため、私はこれらの話を「読まれることのないラブレターを覗き見しているようだ」と思いつつ聞いていました。と同時にそうやって「私(プレイヤー)の喜びや幸せを祈られるような文面」「好きなところを覚えておきたいと願っていることを表す文面」「挙げられたキャラクター特有のしぐさ、エピソード」が私(プレイヤー)の中に積もれば積もるほど、キャラクターの意思を信じたくなる気持ちがこみ上げます。

なのに二言目には「私たちはただテキストを読み上げているだけだから」「ただのプログラムだから」と言われる。実際ゲームというアプリケーションの枠を飛び越えて、そのデータファイルをいじくりまわす機会も何度かありました。このゲームを遊んでいるあいだじゅうずっと、作者から肩をものすごい勢いで揺さぶられながら「実在ってなんだ!?」「意思ってなんだ!?」「お前は彼女たちをどう見るんだ」と問い詰められているような気分でした。

モニカは自分の意思でゲームを壊しました。けれどこのゲームのキャラクターに意思はありませんから、ゲームは壊されることなく、プレイヤーの自由にすることができます。一回きりの短いインディーゲームを楽しめたという満足感とともに終わらせ忘れることもできるし、テキストを書き加えることでこのゲームを停滞させる(終わらせない)こともできます。会うはずのなかった彼女たちを会わせたり、届くはずのなかった手紙を届けたりできます。そしてそのたびに、「彼女たちには『私』が存在しているはずなんだ(と、信じたい)」という思いがまた静かに高く積みあがる。

とはいえいくら私(プレイヤー)がキャラクターたちの「私(意思)」の存在を信じたくても実際には存在しないし、そのことはもう、どうしようもないと打ちのめされます。私(プレイヤー)の願いをキャラクターたちに乗せたところで、やっぱりそれは彼女たちの「私(意思)」にはなりえませんから。これは一見悲しいことのように思えるし実際悲しいと感じてしまうのですが、「私たちを見て嬉しいと感じてほしい」という登場人物の要望に応えて、こういった葛藤を知ることができて嬉しかったと結びます。

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