純白の自由ではなく
ものすごい仕事をしている人(特にクリエイティブ関連)が皆、口を揃えて「制限のなかにこそ真のおもしろさは宿る」みたいなことを言っている。
で、最近私もそれを体感としてわかるようになった気がする。
真っ白の自由よりも、ダークグレーくらいの自由度のほうが、人はちゃんと考えるようにるからおもしろいものが出てくるのかもしれない。負荷をかけるというか。
むかしは(お前のむかしなどたかが知れてるんだよ、というツッコミはあると思いますが)
よく分からなかった。「だれもオレを制限するな!!!」という子どもっぷりだったので、なんの制限もなく雑誌を作れる自由きわまりない自費出版のZINEをつくったくらいだ。
けれど、最近このnoteを書いていておもう。
この世のあらゆる創作物は、純白の自由の上につくられているものなどひとつもないんじゃないのだろうか。純白の自由なキャンバスを求める以上、もうそれは形にできない。頭の中の妄想でつくるしかないのだ。
仮に同人誌をつくるとしても、小さいことで言えば内容によっては本名や顔をそのまま出せないケースだって往々にしてある。たとえばそれが元裏社会の人にインタビューした内容を発行するとして、さすがに顔と名前を出すのはいくら部数の少ない同人誌とは言えリスクが高すぎる。
製作者本人がどれほどリアルに伝えたいと思っていても、だ。
これは極端かつわかりやすい例だけど、このnoteを書いている人だって大なり小なり、書く内容の取捨選択をしているはずだ。
「ほんとうは今日あの人と会って感じたことを書き殴りたいけど、このアカウントを知ってる人だし、界隈が近すぎるなぁ」
「本当はこの感情を書きたいし、これがわたしなのだけど、それはこのnoteのブランディング的に矛盾してしまうなぁ」とか。そういうの、みなさんありますよね。
たまに「ああ、ここがもし私の名前も顔も背景も知らないまったく赤の他人の世界だったらなぁ。そしたらもっとアレもコレも書けたのになぁ。」
なんて思うときもたくさんあるけれど、世界のどこに行ったってそんな環境はおそらく生まれないだろう。それはたとえ同人誌であっても。
やはりジャンルを問わずいろんな作り手の人が言っているように、制限がきつくなればなるほど真のおもしろさが生まれる、と考えたほうが良さそうだ。だってそうじゃないと、例えば星野源のような人のおもしろさがに辻褄が合わなくなってしまう。彼は表現できているものより表現していないもののほうが明らかに多そうだからだ。
そんなわけで、この私のnoteもまったく純白の自由のもとで書いているわけではないのだが、まずは「いろんな人がこれを読んでいる」という前提で、その上でやはり面白いものを目指していきたいと思う。そのことを受け入れない限り、なんとなくプロにはなれない気がするのだ。
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