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「いる」

昨夜は酔いと眠気とに格闘しながら途中まで書いていて、そのまま寝落ちしてしまった。

今朝その下書きを読み返してみたら、公開しなくてよかったかも、と思うほどに強い言葉で政府への不満を露わにしていた。おもに年金のこと。会社員とフリーランスではもらえる額が断然違う。
賃金は上げない(だったらフリーで稼いでやるよ、という野心のある人たちは当然増える)くせに、正社員を優遇するこの仕組みは一体なんなのだ、と思う。我々を税収入源としかみていないのだろうな。

選挙に行けというが、行ったとて毎回変わらない。毎回野党に入れているのに、なぜか自民が居座る。投票行為もこれでは虚しくなる。もちろん票を投じることをやめるつもりはまったくないけど。

シラフになった今でも真剣に思うが、やはり数十年も我慢して生き延びるメリットが全く感じられない。絶望しかないね、ホントに。

今はまだ二十代で一応健康だけど、すでに生きていくことは常に苦しい。これで金や健康のことを考えざるを得なくなったら三重苦とかになって、いよいよ死を連想し始めるかもしれない。そのストッパーになりうるのが自分の家庭をつくり、子どもを産み育てることなのかもしれないが。

子どもじゃなくても、吉本ばなな姉貴が言っているように、今後は生き延びるために、人間じゃなくても動物や植物や自分以外の他者の命を育てることがプロセスとして必要になってくるのかもしれない。それは人間の本能として。でないと私という身体の場合、何かが腐ってゆくような予感がする。

気づいたら夜考えていたことを多少オブラートにしつつも全部書き出してしまったような気がするが、将来のことを真剣に考えれば考えるほど鬱鬱しい気分になってくるのでここは気持ちがスカッとするような、大好きな人たちのことを思い浮かべてごまかしたい。

さて、こんなとち狂った世界でも迷わず自分の感覚、もともと備わっている力をなかったことにせず伸ばしながら生きている頼もしい人は少なからずいて、最近はそういう、植物のように生きる人たちに勇気と元気をもらっている。人間のはずなのに、どんな場所に生まれても光が当たるところへ枝葉を伸ばす素直な植物のような人がいるのだ。自分も心底、そうなりたいと思っているのだが。

2回に1回彼のことを書いている気がするが、やはりその筆頭にいるのが坂口恭平氏。
彼が生きている限り、間違いなくこの世はほんの少しだけ明るい。そこまで目立たない場所で、清々しく、清潔に反逆をしている。それも側から見れば反逆とは思えないほど好意的な形で。

当てにならない国や政府を早々に見限り、かと言って無計画に暴力的な反逆をするわけではない。植物が考えることなくただ本能で土に根を広げていくように、彼もまた本能で自分の足を広げていく。パステルはもちろん、畑や料理、音楽に裁縫。つい昨日はガラスを作っていた。
彼の生き様を見ているだけで、浅かった呼吸もスーッと深いところまで入ってくるような気持ちになるのだ。光合成をしているのかもしれない。

その鮮やかな広がりは一見全てが勘に見えるのだけど、見ているとそう出鱈目でもないので、つまりはしたたかな思考のもとに感覚で根を広げているということなのだろう。思考は練度が高まるといずれ速さが生まれ、その往復のうちに感覚の域に達するのかもしれない。無思考で感覚できるようになる。

そしてそういう存在は、生きているだけで、世の中に生き様を晒すだけで小さな希望になる。

だからこんなおかしい世界でも、まともな人間や頼もしい人間は確実に「いる」。最近こういうことばかり考えている気がするけれど、そう思うとすこしは楽にならないかい?

私も含め多くの人が誰かに流されまくって自分の感覚や感情を蔑ろにして生きているけれど(なぜならそうしろ、と言われているからだ。それが1番手に取りやすい、1番簡単な場所にあると思わされている)、そうではない方法でもこの世の中を生き抜けられるという発見自体が、今日もどこかで名もなき人々に新しい空気を与える。小さな希望を与える。ひとときの癒しになる。

私も、こんなふうに植物のようにしたたかに生き、小さな世界を癒すようになれたらと強く思う。見返りなどない。私の人生に一瞬だけでも現れてくれて、ほんの数ミリでも希望を与えてくれた人たちへの、私なりの恩返し、そしてこの絶望的な世界への反逆なのだ。

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