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あぶなっかしいは愛おしい

あぶなっかしい人を、はたから見るのが好きだ。
もはやフェチなのかもしれない。

あぶなっかしい人とは人生の白線の上を歩いているような人だ。天国か地獄かを分けるような、闇と光の境目をギリギリで歩いている人。気が緩めばすぐにネガティブな世界に落ちていきそうなんだけど、なんとなく、この人だったらこれからも闇に落ちていかずに歩いていけるんだろうなあ、と思わせるような人。落ちそうで落ちなくて、ひょんなきっかけから、いともかんたんに光の世界のど真ん中を歩いている姿が想像できる人。
総じて、あぶなっかしいのに希望のにおいがする人だ。

大事なのは、あくまでもまだ闇に落ちていないということだ。「どっちに転ぶかわからないけど、なんか大丈夫そうな人」に、無限の興味が湧いてくる。境界線を頼りなく歩いていくようすをしかとこの目で見てみたくなるのだ。
なぜなら、多くの人はわざわざそんな際どいことろを危険を犯してまで歩こうとはしないからだ。
自分の強い意思を抱えてあくせくしているからこそ、気づけばそんな境界線の近くにきてしまっているのだと思う、彼らは。


ちょっとそれとは逸れるかもしれないけれど、最近あぶなっかしかったのはPodcaster・「奇奇怪怪明快事典」コンビのインスタ生配信だ。

私がいちばん好きなバンド・MONO NO AWAREのボーカルと、Dos Monosというヒップホップグループのラッパー2人がやっているのだが、この男性2人の会話が本当におもしろい。知識と教養と頭の回転の速さを身につけた「少年」っていう感じがとても好きだ。

とはいえ、私の性格上どうしてもラジオコンテンツが聴けない(というかいつ聞けばいいのかわからない)たちで、彼らの配信は滅多に聞くことがない。私が聞くのは、たまに突然はじまる生配信の方。

その生配信中の会話が、死ぬほどあぶなっかしい。

普段の配信がいかに「録音」され「編集」されているのかがよくわかる。
生配信になった途端の2人のボケとツッコミのハマらなさ。ボケがはまらなくて、3秒ほど流れるじわじわとした沈黙。たまらなくなって思わずインスタを一瞬だけ閉じてしまうほどだ。

もちろんボケとツッコミがピタッと決まる気持ちの良い会話のキャッチボールもあるんだけど、大体生配信ではバンドボーカルの方がややスベってしまう。それにすかさず助け船を出すのがラッパーなのだが、その助け船すら、すばやいツッコミが必要という…….。「この返しをどうするんだろう?」と会話の一挙一動にソワソワしてしまい、固唾を飲んで聞き入ってしまう。決めるべきところがハマりそうでハマらない……けど最終的にはなんとかハマる、という視聴者を惑わす感じがとてもいい。
闇に落ちそうで落ちない飛行機みたいだ。

私の説明が悪すぎる気がするが、とにかく、低空飛行な彼らの生配信のあぶなっかしさがどうしようもなく愛おしい。そっ閉じしてしまいたくなるほどにはヒヤヒヤするのだが、そのヒヤヒヤこそたまらない。バシッと決まりきれない人間くささ、のようなものが出ている気がする。「ほんと、そんなもんだよな人間って。」と思ってしまう。

芝居や映画、アニメなどのフィクションの世界でもあぶなっかしい人に惹かれる。
前に見た舞台のキャラクターの中に、思春期からくる心の揺れのせいで、感情スイッチの入れ替わりがえげつないほど激しい女性がいた。ついさっきまで部屋の中で彼氏とキャッキャキャッキャ騒いで走り回っていたのに、その3秒後には窓辺に立って現実の虚無に立ち尽くしているようなキャラクターだった。その笑顔と無表情の落差、動きの静動があまりにも激しすぎて、さすがに感心してしまった。「ああ!あぶなっかしい人とはまさにこんな人だ!」と。俗に言うメンヘラとはすこしちがう。じぶんの軸がしっかりしているからこそ、闇と光の狭間でさまよっているような。
感性の鋭いキャラもまたよかった。

現実世界でも、どちらかというと勢いがあるくせにどこかあぶなっかしい人の方が好きだ。
ひょんなことでフラっと闇に落ちていってしまいそうな、思わず無事を祈りたくなる人の方に惹かれる。

いくさきざきでいろんな人に好かれて、同時にいろんな厄介なことに巻き込まれている心の美しい感性の鋭い友人とか、同じく思春期特有のアンビバレントな内面を抱えている私の弟とか、ほんとは胸に秘めているものがあるのに今が基本的に楽しくなさそうな人とか。私の周りにいるあぶなっかしい人はそんな人だ。

彼らがあまりにも頼りないので、見ているこちらが思わずなにかに祈ってしまいたくなるのだ。「無事にできますように」「繊細なあの人が笑っていますように」と。

そんなあぶなっかしさに惹かれるのは、まさかお世話のしがいがあるから、とかではない。観察者として、その人たちの人生の端くれに登場した傍観者として、どっちに転ぶかわからないあやうさを抱えて日々を全力で生きている人間が単純に好きなのだ。不器用、とまではいかないんだけれど、ゆずれない意志の強さがあるのにどことなく冴えない人たちの矛盾、でこぼこさは、とても愛おしく見える。

そういう人にはきまって生き様に不思議な魅力を感じる。小さな失敗をたくさんしながら懸命に生きるその姿に、目が離せないのだ。そつなくなんでもこなしてしまう完璧な人を見るよりも全然楽しい。あくまで傍観者としては、だけど。

そしてあぶなっかしい彼らの愛おしいポイントは、あぶなっかしいくせに、いつもギリギリのところで失敗を回避するところなのだ。大怪我や大事故を起こすことなく、いつもギリギリでなにかに守られている。それは天からのご愛嬌なのかな、と思う。もしもわたしが人間を上から見ている神のような存在になったら、背中にふわっとあたたかい風を吹かせてやりたくなるのはこういう人だろうな、と思う。上から目線だけど。

何を書いているのか自分でもよくわからなくなってきた。ともかく、あぶなっかしい人たちの生き様を見るのが好きだ。そして、なにより彼らの生き様を信じている。
どんなにあぶなく見えても、きっと彼らは闇に落ちることなく、そのまま闇と光の境目を頼りなく歩いて行くか、堂々と陽の目を浴びて表通りを歩いていくことだろう。その暁には、きっとそこらへんの人もあっと驚かせるようなおもしろい人生を歩んでいるにちがいない。

彼らの人生のちょっとした脇役として、愛すべき、希望のにおいのするあぶなっかしい彼らの幸せを、わたしは密かに願いたい。


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