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徒然山梨紀行-愛嬌が発揮されるとき

今日はとある仕事があって山梨に出かけていた。
朝早くに起きて、シャワーを浴びて新宿駅へと向かう。窓から差し込んでくる朝の空気は文字通りキラキラしていて、畳の上に光の筋をつくっていた。

この時期の朝が一番好きだ。
ちゃんと空が青くみえる。花がちゃんと鮮やかな色を放っている。世界の色がちゃんと濃く見える。これがもう少し夏に近づいてくると、日差しが強すぎて世界を全体的に白っぽくしてしまう。色が最も映えるのは今の時期だ。

朝の新宿駅もきれいだった。夜の空気が入れ替わり、早起きな家族やご老人たちがつばの大きい帽子をかぶって早足でホームを跨いでいく。この時間帯に働いているカフェやコンビニの店員は駅の誰よりも冴えた顔つきでスムーズに会計をこなしていく。見ているだけで目が覚める。

アイスコーヒーと駅弁を買い込み、特急あずさに乗って甲府駅を目指す。

初めて乗った特急あずさの線路は、途中まで中央線と同じらしい。
中野からまっすぐ東京の奥地に向かっていく路線を、控えめに慎重に走っていくあずさ。当たり前だが地方の貨物列車とは性格が違う。(西日本の貨物列車は人がいるホームだろうが、お構いなしに殺人的スピードで突っ走っていく)

朝、無事に定刻通りの電車に乗れたという安心感と、稀に見る天気の良さですっかり機嫌が良くなった。窓からの景色も全てが清々しい。
八王子を過ぎてから、電車は一気に加速して本調子を出した。あっという間に、辺りの景色は杉に囲まれた山々へと変わっていく。視界が青い。昔の人々は緑のことを青いと言ったそうだが、この時期の山を見るとその気持ちもよくわかる気がする。blueの青さではなく、青春のあおさのような。フレッシュさを「あおい」と言ったのではないか、などと思う。ここ最近でとてもご機嫌になった。よし、これは今日の仕事もきっとうまくいくぞ、と思った。今日はうまくできそうだ。

八王子駅のつぎの駅、東京からものの1.5時間で、甲府駅に着いた。駅に約束していた人が車で迎えにきてくれた。たぬきのように立派な太鼓腹がわかるシャツを着て、木陰で私を待っていた。

その人曰く、甲府は京都のように周囲を山々に囲まれた盆地なのだそうだ。そのおかげで夏はかなり暑く、冬は雪こそ降らないがとても寒いとのこと。
今日は都心も最高気温が30度を超えるような暑い日で、甲府もとても暑い日だった。フレディマーキュリー風の白いタンクトップ一枚でも十分過ごせるような夏の日、盆地の甲府は影がないため、太陽の日差しがそのまま地表を照りつける。朝からしっかり暑い。

目的地までは甲州街道を通った。
「この道は軍用道路でね。新宿駅の前まで通じているんですよ」
軍用道路は意図的にくねくね曲げるようにしているらしい。ところどころ急に曲がる道を10年前に購入したというマニュアル車をカクカク切り替えて運転しながら教えてくれた。窓もくるくると回転して開けるタイプの頼りない薄緑のバンが、2人の体重でやや前に沈んでいるような気がした。ちょっと怖かった。

周りは高い山々に囲まれている盆地だった。故郷の広島にはこういう景色があまりないので新鮮な気持ちになった。遠くに富士山が見える。私が見た富士山は「裏側」らしい。有名な富士山のあのフォルムは山を隔てた静岡県がわにあるとのこと。山中湖は、進行方向の山の左手いにあると教えてくれた。さすが地元の人は今見ている富士山がどの富士山を見ているのかわかるらしい。富士山とそれを基準にした方向感覚が、街の人たちにごく自然に根付いていた。

そんなこんなで車の中の会話も盛り上がり、やっぱり今日の人たちとは波長が合うなあ、と思った。私はドのつく素人なので、その場や人との波長でパフォーマンスがすごぶる変わってしまう。しかもその波長は大体最初に会った瞬間になんとなくわかってしまうので、一番最初がダメならあとはもう全部ダメになってしまうのだ。しかもちょっとダメとかのレベルではなく、ことごとく全部ダメになる。途中で良くなることがなく、底まで落ちる。
その分、最初が良ければその日の1日は何をしてもうまくいく。そのくじを引くような感覚は、嫌いじゃない。外れたとしても「こういう世界線があっったんだな」と思えるし、当たったら当たったでルンルンに過ごせる。
相手には申し訳ないが、この出たとこ勝負の感覚はむしろ好きだ。

そんなこんなで、今日は終始良いコンディションで終わった。私の内側から出てくる一挙一動が、ピタッと決まる感覚があった。その感覚は言わずともしっかりと相手にも届く。人が人と交わった時の波長がやわらかく共鳴していくと、場の空気やその人の顔がじょじょにやわらいでいくからだ。周波数帯が同じ人間同士であれば、言葉は最低限しか必要なくなる。言葉で言わなくても「こうした方がいいな」とか「これは多分ちがうだろうな」とか「こうしたらもっと喜びそうだな」というのがわかるのだ。

てなわけで今日の山梨で思ったこと、
それは真の「愛嬌」とは、いつなんどきも話しかけやすい雰囲気を醸し出している状況ではなく、こうして波長がなめらかに溶け合った状態に誰しもが発揮できるものなのではないか、ということだ。逆に世で言う「愛嬌あふれる人」の「愛嬌」は愛嬌ではないんじゃないかと思う。それは愛嬌ではなくてもっと別の、表情筋の緩さか、あんまり人のことを細かく見ず・考え過ぎずなくとも接せられる能力とかを言うのだと思う。
私は口が裂けても愛嬌がある人間とは言えないのだけど、たまにこうして波長が馴染む人たちと関わると、自分でもびっくりするくらい愛想がよくなる。普段はインキャでひたすらに周りの人を観察しながら出る機会を伺っているタイプなのだが、同じ周波数のゾーンのようなものを持っている人の前では驚くほど積極的に、相手への純粋な質問や口数が多くなる。その時の私は間違いなく、「愛想のある人」と映るだろう。

人が人と話して急にいきいきしてきた時、それはきっと周波数のゾーンが同じ人に会った時だ。たぶん人は誰しも持っている周波数帯が違っていて、それが同じ人と出会えば皆愛想よくなるものなんだと思う。私にとっての愛嬌はそういう、いろんな条件が重なった時に自然と発せられる結果論に過ぎない。ましてや小手先の技術でなんとかなる話でもない。人が人と出会うときに見ているのは顔や持ち物、服装など外面的なものではないのだと思う。無自覚/自覚的であれ、結局は必ずその人の目に見えない魂胆のようなものを見るようになっている。
だから、愛想をよくするための努力は正直必要ないんじゃないかと思っている。だってできないのだから仕方がない。その人とは違った、というだけだ。本当の愛想や愛嬌は、もっと局地的であって然るべきだ。そっちの方が、よほど誠実で互いのためになっている。

意図せず愛想よくできる世界線は、人それぞれに必ず存在する。大丈夫。問題は、どうやってそういう世界線と巡り合うかなのだ。




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