見出し画像

近づけば近づくほど、きらいになる

この世のかなしい摂理だ。
魅力的なもの、大好きなものを見つけると、限りなく近づき、触れてみたくなること。
そして近づけば近づくほど、だんだん嫌いになっていくこと。「美しいものは遠くにあるから美しい」とはよく言ったものだ。ほんとにその通りだと思う。好きになるために近づいたのか、嫌いになるために近づいたのか、わからなくなっていくあの憂鬱な感じを、何度経験しても慣れない。

私のつたない人生経験から言えば、どんなことにも、このかなしい摂理は当てはまる。

一時期、シナモンロールにどハマりしたことがあった。シナモンスパイスの香りの強さ、ちょうどいいデニッシュの硬さ、上にしっかりとレモン風味の砂糖のコーティングがかかっていることなど……。
細かい自分の趣向にピタッとくる、完璧なシナモンロールに出会えるその日を夢見て、都内のパン屋さんを毎日のように練り歩いていた。レビュー用にシナモンロール用のInstagramのアカウントまで立ち上げたほど、本気だった。お店に行くたびにひとつずつ星5段階でレビューをつけ、いつか自分好みの最強シナモンロールをつくろうと思っていたのだ。

シナモンロールは意外とレアキャラなので、パン屋によっては置いてない店もたくさんある。せっかく行ったのに、なんの手柄も得られないままお店を出る日もよくあった。その徒労を避けたくて、途中からはパン屋に行く前にあらかじめ電話で確認してから行っていたほど、シナモンロールに目がなかった。

毎日食べ続けて1ヶ月が経とうとした頃、だんだん体がシナモンロールを受け付けなくなってしまった。
あれほど好きだったシナモンのかおりに、胸焼けがするようになったのだ。そうなると、あの重くて甘ったるいお砂糖のコーティングも気持ち悪く感じてきてしまう。私はとうとうシナモンロールを遠ざけるようになってしまった。

あの時期に、私はシナモンロールを一生分食べたような気がする。もうお腹いっぱいだ。よっぽどシナモンを体が求めない限りもう二度と食べることはないような気がしている。
更新がぴたりと止まっているシナモンロールアカウントには、そんな事情などつゆ知らないユーザーからのフォローが今でもよく来る。なんだか申し訳ない気持ちになる。

私には好きなものがたくさんあるけれど、同時に、こうして近づきすぎた結果、好きを破壊しまうことが本当によくある。シナモンロールにかぎらず、人に対してもそうだ。せっかくつくった「好き」を、そんな気もないのにどんどん破壊してしまうのがかなしくてかなしくて、虚無になる。
大好きなものに近づきたくてやっと触れた瞬間に、どんどんその幸せな気持ちが剥がれていくあの感じは、何度経験しても慣れない。つかれてしまう。

好きな芸能人に会えるイベントでもそんなことがあった。会える日を指折り数えて楽しみにしていたのに、実際に会ってみると「なんか違ったなあ」と勝手に失望して、それ以来どうでもよくなってしまったり。
友達も恋人も、この人しかいない!好きだ!と思ってたくさんの時間を費やせば費やすほど、とだんだん嫌いになり、果ては疎遠になったり別れたりしてきた。好きで好きで目がハートになっていた頃には見えていなかった性格の粗や、互いの相性の問題、馴れ合いゆえにお互いの無礼などが増えていくと、どんどん嫌いになってしまうのだ。

アルバイトもそうだった。
幼稚園の頃から高校生の途中まで、ながらく私の夢はキャビンアテンダントになることだった。いろんな選択肢を知ったことで今はその夢も変わったけれど、大学生になっても相変わらず空港は大好きな場所だった。

どうせ働くなら「好きな場所にいちばん近いところで」と思い、大学に入ってすぐ、空港にいちばん近いカフェでアルバイトをしていたことがある。
たしかに、空港までつづくモノレールに乗れることは毎日旅行気分になれたし、夜に見る滑走路の光の点滅は、冗談抜きにクリスマスのイルミネーションよりもうつくしいと思った。忙しすぎていつもクタクタになっていたけれど、大きな飛行機が軽々と機体を上げてどこかへ旅立っていく様子は、見るたびにうっとりするものがあった。いつも疲れていたが同時に癒されてもいた。


けれども結果としては案の定、空港やCAを嫌いになった。いや、嫌いになるまではいかないけれど、びっくりするほど興味を持てなくなった。あれほど好きで憧れていたのに、今はなんとも思わなくなってしまった。空港に行っても、1年でいちばん忙しいお盆の時期に汗水を垂らしてヒールで忙しく働いていたことや、足の靴擦れが痛かったことを思い出して、憂鬱な気持ちになる。

空港の内部にある従業員専用通路には、ヒールで歩いている美しいCAやグランドスタッフが普通にいた。憧れの制服を着て、忙しそうにキャリーケースを引く姿を飽きるまで眺められる環境は、昔の私であれば飛んで喜ぶシチュエーションだっただろう。

でも手洗い場で女上司の愚痴をため息まじりに言う若いグランドスタッフやCAを何人もみているうちに、どんどん夢が剥がされていく気持ちになった。疲れて「完全オフモード」になっているCAやGSもたくさんみた。噂では聞いていたけれど、やっぱりザ・女の縦社会なんだと思うと、自分にはやっぱり似合わない場所のように思えた。
空港も、毎日通えば印象も変わってくる。「なんて不便な場所にあるんだ」「物価が高い」「働いてる人が好きじゃない」「そのくせ、ぱっと見のおもてなし精神だけは立派なんだな」とか。夏休みの繁忙期、ほぼ毎日働いていて疲れていたということもあって、あんなに大好きだった場所にネガティブな印象やラベルがどんどん貼られていていく感覚は、かなり虚無いものがあった。さらに疲れてしまう。

私は何よりも、そういう虚無に弱い。どんなに小さな現実でも、それを見過ごすことができないほど何かがひっかかるとき、途端に何もする気が起こらなくなってしまうのだ。力が入らなくなる。
だからなるべくそういう虚無を感じてしまうシチュエーション、「知ってしまう」とか「気づいてしまう」ことをなんとしてでも避けたい。あったとしても、私がギリギリ耐えられるものがいい。
以来大好きなものは、大好きであり続けられるための距離を慎重にはかるようになった。

働くときも、なるべくその虚無に襲われないような場所がいい。
大いに夢を抱いて入ってしまうと、必ず入ってから何かが壊れる音がすると思うからだ。

でもそうは言っても、なんの夢も希望もない、好きや興味もない場所で機械的に働くのも無理だし、ある程度の落差はどんな世界に行っても存在する。それは仕方のないことだと思う。自分のことを100%知っている人間などいないし、外に向けて自分のいいところを見せようとするのは当たり前のことだからだ。

最近の私は、社会勉強と評していろんなタイプの人間にあって話してみたい欲が強い。次に新しくバイトをするなら、個人経営で、センスが良い、人もいい狭いカフェでやってみたいなあと思っている。

そんなことを考えていた今日、家から徒歩4分のところに、実にすばらしいカフェを見つけてしまった。和風の庭があり、扉がガラスで横にスライドするタイプの古民家カフェ。大好きな木造。ここも一瞬で好きになった。しかも私の労働条件とぴったりと合うカフェだ。個人経営、センスのいい店内、そんなに広くない、客層もいい。

そこで1,2時間過ごしながら、私なりの答えを出した。
「ここは、好きを好きでいられる距離を保とう」と。好きを守ろうと思った。
働くときはじぶんの好きな場所で働きたいけれど、好きな場所を嫌いになるまで近づくことにはもううんざりだった。
もしかしたら運よく幻滅せずに、店員になっても好きであり続けられるかもしれないけれど、ここはその博打をすることすらもったいない気がする。せっかくこんなに好きな場所にめぐりあえたのに、また嫌いになるのはいやだ。

大事なのはたぶん、大好きなものと、そのリアルな姿との落差に気づいてもなお、「平然と無視して関わり続けられるか」「受け入れられるか」「逆におもしろがれるか」どうかなのだと思う。
それは妥協ともすこし違う。大好きすぎてどんどん近づいていく時、実は見えないようになっていたありのままの姿を受け入れられるかどうかで、初めてそれを愛せるかが決まる。

ありのままの姿もOK!大好き!(もしくは気にならない!)と思える人や場所を探すか、大好きなものや人を、大好きでいられる距離を保ったまま楽しく過ごすかのどれかだ。
だから大好きな吉本ばななのことも、大好きであり続けるために、けっして会いに行ったりファンレターを送ったりはしないようにしている。好きなアイドルやバンドも、必要以上に追いかけないし、近づかない。出待ちもしない。素性も私生活も調べない。そういう線引きだけは、潔癖が出る。


ものはなんでも適切な量というものがあるらしい。
大好きなものや人に出会ってどんどん近づきたくなったとき、私の脳裏にはいつも、あのシナモンロールブームのやらかしがフラッシュバックするようになっている。

おまけ。今日のカフェの黒板に書かれていたこと。
なんかいいなと思ったので、記録がてらここに書いておく。

心の停留所
ちょっと立ち止まって考えてみる

あなたは どこの どんな音を
聞きたいですか?

この先はどこへ行く?

ここからの行き先は
行くか 行かないかも
わたししだい


最後まで読んでくださりありがとうございます。 いいね、とってもとっても嬉しいです!