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2021.1011

Every dog has its own day

いちばん書きたいことはいつだって書けないんだけどな、と思いながらこの筆をとる。

日記って面白いな、と思う。たとえば私がこの文章のおわりに「ここに日記を書いて、私は眠った」と書くとして、それを書いてる最中の自分はまだ起きている。眠った私を想像して、これを読む数人に私の眠りを伝えている。
日記とは、幽体離脱をして今日一日を私と一緒に過ごしていたもう1人の自分が、私の1日の暮らしを覚えてくれていて、それを私自身が書き残していくような、そんな試みなのかもしれないな、と思う。何いってるか、自分でもちょっとよくわからないけど。

今朝は目が覚めた時から何もしたくない1日だった。
横になっているのに体が重い。あー、と思う。
疲れが溜まっている。もう月曜日が来てしまった。朝、一瞬だけ出なければいけないオンラインの予定に出て、またベッドに戻る。再び目が覚めた時にはお昼どき。隣の部屋ほどには日当たりが良くない私の部屋でさえ、まぶしい光が入ってきている。昼間の一番明るい光を吸ったシーツもカバーもかけていない白い布団が、ひかって見える。今日のしあわせその1。
私の布団はカバーもシーツもつけていない。そのまま、真っ白なままだ。
カバーをかけない理由は、白い布団は夜、眠っている間にいやなものを全て吸い込んでくれるとどこかで見たから。風水は信じないけれど、こうして昼間の太陽を吸い込んできらきらと光るまっさらな白い布団を見ていると、あながちその都市伝説もまちがっていないような気がしてくるのだ。学生のときだけの特権、月曜の昼まで二度寝をするおいしさを味わった。

15時

それからだらだらと仕度をして、大学の図書館に出かける。空が綺麗だった。雲は秋だった。
駅前の交差点を渡るとき、ふと、「戦士」という言葉がよぎった。なぜだかはわからない。でも確かに、生きるって、おなじ戦士とスクラムを組んで荒野を駆け抜けてるみたいだな、と交差点を大またで渡りながら思った。
バイブスが合う人たちの顔を1人ずつ思い浮かべる。戦士だなあ、と思う。私は戦士と一緒に何かに抗い、どこかに行き、おなじものを見て、きっと明日も静かに戦っている。もしかしたら、今のこの世の中が乱世で過渡期だから、仲良くなる人には「戦士」という言葉がいちばんふさわしいのかもしれない。
それぞれが何と戦っているのかはわからないけれど、たぶんそれは社会の不条理だったり、自分の中から込み上げる衝動だったり、親だったり、同世代だったり、社会の誰かのまなざしだったりするのだろう。私がいま組んでるスクラムは、何と戦おうとしているのか。どこにいるのか。わかるような気もするし、わからないような気もする。ここには書かないでおこうと思う。

18時

図書館に着いて、PCで2本講義を受ける。いや、正確には1本。
2本目の講義では、言葉には語用論的解釈と意味論的解釈があることを学ぶ。
法廷では、例えば、死刑が下された暴走族の元会長による発言「いまに見てろよ、死刑の宣告をしたことを。いまに後悔するからな(訳)」といった内容が、語用論的解釈と意味論的解釈では意味が異なる。前者では「死刑宣告したことの復讐をする」といったニュアンスが含まれるのに対し、後者では文字通り、「裁判官はこのことをきっと後悔するだろう」といった意味のみを表す、というものだった。前者の語用論的解釈を用いれば、司法の場では犯罪の意思とも受け取られないのだそうだ。
たしかに人に実刑判決を言い渡す法廷の場では、言葉の一つ一つが何を意味するかで人の人生を大きく棒に振ってしまう可能性がある。慎重に慎重に、まちがわぬよう言葉の解釈を考えるのは必要なことだけれど、まさにこういう法学の言葉のからくりごっこが嫌いだったのだよな、と思い出す。巧みな言い回しと論理によって相手方を言葉で打ちまかし、法律の解釈では書いてあることの数百倍以上の意味やルールや解釈を見出そうとする。本来はもっと自由なはずの言葉が、ここでは崇められ、縛り付けられ、そこに関わる人間も身動きが取れないほど縛られている。その状態で大金を稼ぐ。
ここは、言葉とただ仲良くしたいだけの私がいる場所ではない、という思いに変わりはない。法律という、言ってしまえば人間が作った言葉のつらなりでしかないものの運用に躍起になる人間と、その社会の様子を見るのが、私はこの4年間とても苦痛だった。

20時


やらなくちゃいけないことをだらだらと済まし、隣の席の人が2人変わったころ、無性にお寿司を食べたくてたまらなくなった。
歩いて高田馬場近くの寿司屋に行き、ひとりでもうぜんと寿司を食べたいところだったけど、後の予定でそうはできない。仕方なく図書館の近くのコンビニに寄る。
大好きなセブンイレブンの唯一の欠点は握り寿司を売っていないところだ。サラダ巻きで妥協するか迷ったが、いやいや全然ちがう。近くを検索してすぐ隣にまいばすけっとがあることを思い出す。

入ってすぐの右手に寿司があった。正直、ニヤついてしまった。
からだが冷えていたのでスープと一緒に買い、お湯を注いで図書館前の暗いベンチで寿司を食べる。どうと言うことのない、普通のスーパーのお寿司のはずが、いちばん食べたい時に暗闇で食べるというだけでありえないほどおいしく感じられた。最高だった。周りに誰も見ていないのを確認して、思わずぶんぶんと腕を振った。

ここで、光り物(この前行った回転寿司で学んだ言葉)はほんとうに、闇にこそ光るのだと深く納得した。なんの種類かわからないけれど、白っぽい青魚だけが唯一暗い手元に光って見えた。普段は不味くて食べられないマグロの赤身もありえないほどおいしかったな。
暗闇の寿司が今日のしあわせその2。残っていた作業に手をつけて、22時の閉館まで居残る。

23時

家まであと5歩くらいの時、前の土曜日に死に物狂いで獲得した「みうらじゅん・山田五郎トークショー」の料金を払っていないことに気づき、コンビニに引き返す。ウェブチケットは1分で完売、発売開始から20分くらいは完売に気づかずwebチケットの販売ボタンでウロウロしてしまっていた私には、ダイヤルがつながるまでひたすら電話をかけまくるという手法しか残されていなかった。
かけること181回目、ついに運営局と繋がって獲得したのがこのチケットだった。とうとう入金を終え、手元に物理的なチケットを得た。これが今日のしあわせその3.
今年は高円寺フェスが開催されるらしい。今や個人的にはどの韓国アイドルよりも「推し」になってしまったアラセブンのみうらじゅんをついに間近で見る日が来るとはもう、感無量でワクワクしてしまう。うちわ作成とか…ちがうよな。マスクの下でまた、ニヤける。

25時

夜、髪を乾かしながら、ふと友人のブログを思い出す。
彼女は遠くて近い存在で、同じ東京にいながら、会いたい時にはなぜかテレパシーのようなものが通じ合い、お互いがお互いに会いたいと同時に思う。だから予定もすぐ合うし、毎回きれいにすんなり会える、そんな仲だ。
私の何十倍もするどいものを持ち、直感のままに生きている魅力的な人。彼女のブログを久しぶりに覗くと、8月の半ばから更新が止まっていた。

もう少し寒くなったら、彼女に連絡を取ろうと思った。

wifiの調子が悪く、コンセントを全て引っこ抜いて再起動するという荒技治療の後、これを書き始める。書き終えた時刻は26時26分。




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