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8/17(木)日記

*「お茶する」への憧れ

毎日の日記用に、その日考えたことや書こうと思ったことをスマホに箇条書きでメモするようにしている。

今、手元にあるメモには「お茶をするへの憧れ」って書いてあるんだけど、なんでこう思ったのかが思い出せない。
まぁいいや。

「お茶する」って言葉のイメージ、なんか良くないですか?素敵じゃないですか?

吉本ばななの小説やエッセイに、よく「誰々とバッタリ街中で会ってそのままお茶して」みたいな描写が出てくるのだが、「お茶する」っていい響きだよなと思う。

最初は文字通り「緑茶をすする」という意味かと思っていたのだが、ばなな氏の作品をよくよく観察してみるとどうやらお茶である必要はないらしい。作品では紅茶を飲んでいたりコーヒーを飲んでいたりする。「あ、コーヒーも『お茶する』って言っていいんだ」と思った記憶がある。

「カフェに行く」でもなく「ティーブレイクする」でもなく、「お茶する」。なんとなく、晴れた日のお庭でソーサーを片手にホットコーヒーの入ったカップをゆっくりと口元に近づけ、談笑するイメージが思い浮かぶ。なんとも上品で優雅だ。

それで、これまでに自分が「お茶する」をしたことがあるかを考えていた。たぶん、ない。

そもそもカフェに行くことが少ないというのもあるが、まず日中に洒落た友達と出会ってコーヒーを飲むことがない。友達と会うのはいつも夜で、酒だ。気心知れた人と街中でばったり会うもんなら、「やるしかないね」と昼からやってるその辺の居酒屋でビールをクイっと決める。

ただ、私の中で「お茶する」に最もふさわしい、それっぽい店ならすぐに思い浮かべられる。早稲田にある、「カフェ ゴトー」という喫茶店だ。タバコを吸えないのが残念すぎるが、そのほかは最高。ここの名物はなんと言っても手作りのケーキで、階段を登って2階の店のドアを開けた瞬間、焼きたてのホールケーキがショーウィンドウの中で出迎えてくれる。季節ごとにメニューも若干違い、冬はさつまいも、夏はアプリコットなど旬のフルーツをつかったケーキが艶々と並んでいる。もちろん定番メニューもいくつかあって、お馴染みのケーキにするか、その時にしか並ばない季節ものにするか、いつも真剣に迷っていた。

店内は「昔ながらの喫茶店」という感じで、ぎしぎしと音のなる木の床に背中とお尻の部分がこすれまくった赤いベルベットの椅子、かつてここでもタバコを吸えていたんじゃないかと思わせる黄ばんだ壁がなんとも味わい深い。ここでは例のカップアンドソーサーでコーヒーが出てくる。たぶんお酒の取り扱いはなく、店内はコーヒーと甘い焼き菓子の香りが全体的に混ざりあって溶けている。

ここで私も、学生時代には何度か「お茶をする」っぽいことをしていた。
小説マニアと名乗る男子のことが気になって呼び出したけれど、彼の籠っている殻が厚すぎて結局何もわからなかったこともあったし、もう顔も覚えてない「よっ友」と来たこともある。

おそらく最後にゴトーへ来たのは4年生の冬。フル単でなければ卒業できないというギリギリの2月か3月、人生最後のテストが終わって結果待ちのタイミングで友達とここへ来た。彼女はもちろん余裕で卒業が確定していて、来春からは京都大学の院へ行くことも決まっていた。あの時の憂鬱な気持ちは痛いほどよく覚えている。

当時の私はまだ何も決まっていなかった。卒業も決まってなければ、卒業後の就職先も決まっていなかった。就活はどうしてもしたくなかったので最後まで貫いたが、優秀な周りに囲まれ自分だけ宙ぶらりんになっていることに、漠然とした不安と居心地の悪さを感じていたのだ。

学生最後にゴトーへ行ったその日、外はどんよりと暗く、冷たい雨が降る上に時おり春一番のような強い風が吹くような日だったた。一緒に来た京大院待ちの彼女はケーキのショーウィンドウを見るなり、「え〜!迷う〜!」と声をあげ、目を輝かせながらたっぷりと時間をかけて最後の選択を楽しんでいた。椅子に座った彼女の背景からはオレンジの間接照明が差し、心なしかほっぺも光って見える。2ヶ月後には始まる京都での暮らしに胸を躍らせ、未来のことだけをまっすぐに語る彼女が、その当時の私にはまるで早咲きの桜のように見えた。

「お茶する」の記憶がないのは、喫茶店で心に余裕のある時間を過ごしたことがない、ということなのかもしれない。やさしい気持ちで誰かと店でコーヒーを飲むという時間を、おそらくまだ経験したことがないのだ。

そんな日が私にも訪れるだろうか。純粋に「お茶する」を楽しめるようになれば、私も少しは大人になったと思えるかもしれない。

今日の写真は例の彼女と最後にゴトーへ行った日のものだ。





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