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今日、予期せず実物大のシロナガスクジラの模型を見た。
クジラを見たのはおそらくは人生ではじめてのことだ。

クジラはあまりにも大きい。

公園の片隅、建物の奥へ進まないと見えないところに隠されているクジラは、遠くから見ると地上を離れる寸前の飛行船かのように大きかった。そのあまりの大きさに比べると、人間は実にちっぽけな存在だ。体も小さいくせにこの世の全てを知ったような気になり、せまいせまい世界で一時的につくられたルールや思い込みにそって「生きている」ような感覚になっている。そんな場所で生まれる悩みや苦労や葛藤なんて、本当にちっぽけで、本当にどうでもいいことしかない。ふだん私が考えていることがしょうもなさすぎて、おこがましいとさえ感じてしまう。

小さい頃から、海の中を想像することが好きだった。
あんなに穏やかでたいらな水面の下の下には、人間よりはるかに多い生き物が住み、わたしたちが絶対に口にしないようなものを食べて、生きている。わたしたちの困りごとや喜びごとなんて全く興味のない、関係のない世界で涼しい顔をして生きている。ただ毎日を無事に生きることだけを、本能でやってのけている。

小さな魚が音もなく泳ぎ、海藻は常に海の中のゆらめきに身を委ね、そこで育った生物たちを大きな魚が食べる。その最果てにいるのが、クジラである。

クジラはわたしたちと同じように、腹から子供を産み育てる哺乳類だ。
海の深い場所でゆったりと泳ぎ、人間には聞こえない言葉で仲間とコミュニケーションを取る。

今こうしている間にもきっと、世界中の海でクジラは我々に聞こえないおしゃべりをしながら悠々と泳ぎ続けているだろう。隠れるすべもないほど大きな体を携えて。

ちっぽけな私は、クジラから見れば小さな小さな家の小さな小さなソファに座り、こうして小さな手指で何かを書かざるを得ない夜を過ごしている。

今日の鮮烈な経験以来、たいていのことがどうでもよくなってきた。というか、基本的にはどうでもよいことのほうがこの人間界では多いのだ。人に嫌われようが、うまくいかないことが続こうが、成功しようが、ほめられようが、全部どうでもいいことだ。あのクジラに比べれば。

おごりを避けるためにも、むやみに落ち込まないためにも、私はこれから都度、あの巨大なクジラのことを思いながら生きていくだろう。
生きるためのひとつの軸として、基準として。





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