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文学の意義

ああ。さっさと今日のぶんを書いて(毎日noteを自分に課している)早く寝たいというのに、なんで私はよりにもよってこんな数千字もかかりそうな内容しか書けないのだ。
眠いので、手短に思っていることを書きたい。



この世には、一定数「あたらしもの好き」が存在する。
最近は当たり前になってきたがしきりにキャッシュレス決済しか使わない人、最近オープンした〜〜の店とか、あたらしくできたサービス、よくわからないが一部界隈が話しているNFTらへんの話、TikTokなど。

あたらしもの好きは、私の観察結果で言うと、大抵は陽キャだ。

いつも元気で、悩みがなさそうで、大学時代はテニスサークルなんかに入ってそうな人だ。とにかく人よりも新しいこと、変わったとがしたいタイプ。そういう体育会系(と言っていいのか)気質な人が、我先にと新しいものを積極的に持ち始める。

どちらかというと私はこう見えても静かで、保守的だ。
新しいものには「こんなものけしからん!フンッ」と頑なに拒み、腕を組む。新しいものの存在をいかがわしく思うし、ましてや使うことはない。
Airpodsが出てきた時もそうだ。「あんなうどんのようなもので音楽が綺麗に聞こえるはずがないだろう」と思っていたし、今だってどれほど手数料がかかってケチくさく囲い込みをしてこようと頑なに現金ユーザーを貫き通している。

なので新しいものにすぐ飛びつく人間を、私は遠目でやや軽蔑まじりの眼差しで見守っている節がある。
なんと浅はかな。新しいもののリスクを考えたことはないのだろうか。〜〜〜な理由で〜〜〜の可能性だってあるのに、と、ぶつくさ頭の中で頑固親父のようなコメントが流れてくる。

けれども、同時に、もしこの世界がわたしのような頑固親父気質の人間しかいなかったら、世界はこんなに進まないだろうな、とも思う。
ペイペイなんて欲しいとも開発したいとも思わないだろうし、SNSもいらないし、なんなら車だって「けしからん!!!」と言って拒否していたかもしれない。
イノベーションは、おそらくはいつもそういう「けしからん」人間が発端となり、産み落とされている。
そう思うと、新しい店に通うミーハーな人間や、NFTに価値を求めて開拓しようとしている人間は、浅はかだと思いつつも、実は私たちの世界を広げてくれる存在なのだろうな、と思う。あたらしもの好きの彼らによって、世界はいつも広がっていっている。

あたらしもの好きの彼らが、科学と数字によって世界を広げていくのならば、私たち物静かな文学勢はなにができるのだろう、何が役割なのだろう、と最近はよく考える。

時間がないので端折るが、文学の役割は、あたらしもの好きの彼らが、前に立ってどんどん開いてゆく際の縫い目の甘いところ、つまり世界の綻びを、言葉や愛によって、後から追いかけて丁寧に縫い直すことではないのだろうかと思う。しかも、自分が取るに足らない人間だ、ということを踏まえた上で。

あたらしいものは未知だ。未知なゆえに、あらゆるものを傷つける可能性は大いにある。彼らがバリバリと世界を切り開いてゆくとき、必ずと言っていいほど大なり小なりの犠牲者や疲れのたまる人が出てくるだろう。それを精一杯に癒し、なんだかんだ人類への愛を持ってその綻びを少しでも縫って一枚の毛布を作ろうとしているのが、文学なのではないだろうか。

そんなわけで最近は文学ができること、すべきことを考えている。今のところは、人に元気やおしみない礼賛を与えるの他に「繋がっていないものを繋げる」とか「離されていたもの同士がくっつく」とか、そういう力があるんじゃないだろうか、と思う。わたしはいつだってそんな文学に助けられて、生かされ、そして心踊らされている。
ものすごく抽象的だけど。



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