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苦手なことを克服すべきか問題

タイトルの件、ものすごく悩んでいる問題だ。

多かれ少なかれ、人にはかならず「苦手なこと」が存在すると思う。
私の場合は運動が本当に本当に本当に(×100)苦手で嫌いなので、ランニングやジム通いが趣味になることはおそらく一生ないだろう。
お酒を入れないまま数人以上のグループで話したり行動するのも苦手だし、パクチーのあの強烈な匂いも苦手だ。

でも、そういう苦手なことを全部「矯正する」というのも、最近はちがうんじゃないかと思うようになってきた。苦手な食べ物だって、別に食べられないままでいいじゃない。だって人は変わらないのだから。無理したって、いずれ元に戻ってくるんだから。基本的にそう思う。
ただ、「苦手」のなかでも一定数は「まあ、できれば克服できたほうがいいよね」というものも存在していて、それをどうやって納得するか、その線引きがとても難しい。どこまでを努力で改善して、どこからを諦めるのか。

とにかく、無理だけはしたくない。
無理してジムに通ってまで筋肉をつけたいとは思わないし、無理してパクチーを食べる必要はないし、無理して陽キャになる必要はないと思う。

むかしは、と言っても高校生とか小学生のころの話だけど、苦手なことは無理してでも「最低限、人並みにできるようになる」ことを自分に課していたし、なんとなく周りの雰囲気もそうだったと思う。

けれどだいぶ時代の価値観が変わってきて、今はできないことに時間と労力を割くより、「逆に何だったらできるかにフォーカスしたほうがええんちゃう?」というのが今の時代の空気感だと思う。中央値に寄せようとするから「不適合者」とか言って辛くなったりししんどい思いをする人が生まれるわけで。

昔は芸能人だけが許されていた「才能だけで生きてゆく」感じが、ようやく我々一般人にも(特に同世代の若者たちの間から)じわじわと広がっているような気がしている。私の周りだけかもしれないが、自分ができないことを無理してできるように努めている堅気な人は今少ない。私たちはでこぼこな存在であって当たり前で、ならば私の凸とあなたの凹を合わせてうまく生きてこーよ、というのが今の空気感。

もしかしたら、その感覚は少子化の流れを察知した我々の本能のようなものがそうさせているのかもしれない。頭数がすくなくなってくると集団での闘い方も変えざるをえない。みんながみんなで一斉に同じことをする暇なんてなくて、とにかく「できる人が・できるところから」やっていく必要がある。

こういう価値観だと、世の中からはまだまだ「甘ったれだ」という視線を受けることが多いのだけど……ちゃうねんなー、うちらはうちらなりに精一杯生き延びようとしてるんよなー。

他の人も無理せず、何ができないのではなく何ができるかで生きられますように、と心から願う。それがお金に直結しねえからできねえんだよ、というのが多分、多くの人が抱えている不満なのだろうけど、でも人よりも少しだけの努力でできてしまうことがあるなら、なんとかしてそっちに全集中した方が周り回って公共の利に循環されていくと思うんだ……見えない形で、しかし何よりも尊い形で。

という哲学チックなことをずっと考えているわたくしだけれども、いつか理解されるといいなあと思いつつ、時代の変わり目だからしょうがないなとも思っている。まあ、まずは自分を守らないと愛を配れないので、自分が壊れない程度に適当にやり過ごしていきたい。サバイブしないと意味がない。


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